ジャーナル

僕の考える「努力」とは

努力とは、目的地に対して「自分自身を自走させる」ことを指す。

努力とは

努力は、目的を持ちその目的地を目指す時に使われる言葉だが、その道中には様々な障害がある。例えば、「やる気が起きない」「辛いからやりたくない」などの障害。それらに対して「なぜそう感じるのか?」「どうすれば乗り越えられるか?」などと考え、障害を乗り越え、目的地に対し自分自身を自走させることを努力と言う。

努力の例

努力の例を挙げると、「辛い練習に耐え全国大会に出場する。」「やりたくない受験勉強を続け志望校に合格する。」などが挙げられる。

このような「辛い」や「やりたくない」という障害を乗り越え、自分自身を目的地に自走させることを努力と言う。

努力に無駄な努力はない

では、目的地を目指す過程で挫折した場合、それは「努力できなかった」と言うのか?
いや、努力は自分自身を目的地に自走させることを指すため、目的地に向けて自走し続けた距離は努力だ。なので、挫折したとしても努力は努力だ。

例えば、「全国大会を目指したが出場できなかった。」「志望校に合格できなかった。」としても、「辛い」「やりたくない」という障害を乗り越え、目的地まで自分自身を自走させた続けた距離は努力という。

そして、その進んだ距離は自分に対する信用になり、文字通り「自信」となる。それは、次の目的地を目指す上での活力(エネルギー)になるため無駄な努力はない。

努力は使い回しが効く

さらに、努力は使い回すことができる。なぜなら、努力をすることは「自分自身の動かし方を知る」ことと同じ意味だからだ。障害が目の前に発生した時に「どのように自分を動かせば障害を乗り越えることができるか?」という自身の動かし方を知る行為が努力なのだから、当然のように使い回すことが可能だ。

また、努力は自分自身に対する自信だ。辛い練習に耐えたから辛い仕事に耐えられるし、やりたくない受験勉強をし続けられたのだからやりたくない資格勉強もできる。このように努力は目的地に自走させる活力になる。だから、使い回しが効く。

言い換えるのであれば、努力は自身の品質検査や品質保証のようなもので、数をこなせばこなすほどより「自分自身の動かし方」の精度が高くなり自身に対する「信用」も強固になる。それは、自己を肯定する証拠になり活力になるのだから努力は使い回しが可能だ。

努力と才能の違いとは

最後に、努力の対義語で使われる才能との違いは、「障害と感じる高さ」に違いがある。

努力とは障害を乗り越え、目的地に自分自身を自走させることだが、乗り越える必要があると感じるように目の前の障害に対して高さを感じた時に使われる。その反面、才能は人より秀れた何かを指す言葉なため、凡人が障害と感じる障害を障害と感じず容易に乗り越えることができる。そのような、障害と感じる高さに違いがある。

しかし、才能があろうとも自分の背丈を超える障害に直面することもある。その時には努力をし、その障害を乗り越え目的地に自分自身を自走させるために努力をする。このように、才能を持っていようとも努力をする時はするのだ。

つまり、努力と才能の違いはあくまでも「障害と感じる高さ」の違いであり、才能がある方が障害だと感じないため何かを始め易い(目指し易い)、努力と才能が対義語として使われる時はそういった「行動のし易さ(動機)」の違いを表現する時に使われる事が多いいのだと思う。

→才能と努力の違い(近日公開)

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