「行きたくない」理由
車でコワーキングスペースに向かう時に行きたくない感覚があった
だけど、到着するとスッと消えた
なぜか?
緊張するから行きたくなかった
行きたくないのは緊張しているから
コワーキングスペースには緊張がある
視線という物理的な緊張
納期という精神的な緊張
その日の僕はその緊張に耐えられなかった
だから、行きたくなかった
緊張と同時に不安がある
緊張と同時に「不安」があるように思う
視線で緊張するのは、知らない人の視線は怖いから
納期で緊張するのも、間に合わないことで責められることが怖いから
といったように「不安」がある
そして、緊張と不安は同居しているように思うが、少し違う気がする
「不安」は単体では成り立たず、「緊張+不安」というように緊張とセットのイメージ
不安は選択肢がある時に感じる
コワーキングスペースに行く前に「行きたくない」と感じたわけだが、着いたらスッと消えた
コワーキングスペースに行く前は「緊張+不安」
コワーキングスペースに到着した時は「緊張」
というように、到着時に「不安」が無くなっているように思う
そして、コワーキングスペースでの作業が終わり、ネットカフェで引き続き作業をするか悩んだ時
再び「行きたくない」と「不安」が現れた
しかし、ネットカフェに着いた途端「不安」はなくなった
ということから、「不安」は何か選択をする時に現れるモノなのかもしれない
選択肢がないと緊張しない
逆に、選択肢がない時は「不安」を感じない気がする
納期が迫っている時、コワーキングスペースやネットカフェに「行きたくない」とは思わない
だって、やらないとやばいもん
行くしかなく、そこには選択肢がない
というより、緊張で視野が狭まって選択肢が見れない状態
「不安」を感じることができない状態が正しいのかもしれない
そう考えると、コワーキングスペースやネカフェに到着して「不安」が無くなるのも、無くなっているんじゃなくて緊張によって視野が狭まって「見えない」
もしくは、近すぎて「見えない」、または「不安」の中に入っている状態で「見えない」
そう考えると腑に落ちる
不安を感じるのはむしろ余裕がある
「不安」を感じることできるというのは、余裕があるということなのかもしれない
納期がヤバい時に「不安」を感じない
不安より「怒り」を感じている気がする
余裕があって客観的に見ることができる時は「不安」を感じて
余裕が無くて主観的に見ている時は「怒り」になるのかもしれない
だから、「不安」を感じている時は余裕があって、思っている以上に「不安」に感じていないと言える
ということから、僕は「行きたくない」と感じたなら「あ、こいつまだ余裕があるな」って判断して、「行く」選択を取るのが正解なんだと思う
まとめ
「行きたくない」と感じるのは「不安」を感じているから
「行きたくない」ところに到着するとスッと「不安」が無くなるが、それは「緊張」によって視野が狭まり「不安」を見ることができない状態
そして、「不安」を客観的に視認できるのは、余裕があるという証拠で
余裕が無ければ、視野は狭まり、客観的から主観的になり、「不安」は「怒り」になる
って感じなのかな
そして、「行きたくない」と感じることの根本の問題は、「不安」を発生させている発生源から逃げようとしているところな気がするなぁ
結局のところ、「不安」の発生源を取り除かない限り「行きたくない」も解消されないわけで「行く」が正しい行為なんだと思う
そんで、その「不安」から逃げるのは問題の先延ばしで意味がないのかもしれない
実際、行かなくて「行けばこの時間でこれだけ進んだ」って後悔することはあっても、行って後悔したことは今のところ無いんだよね
だから、行くのが正解な気がする
なんだろうね、一番危なさそうな所が実は一番の安置ってゲームとかでよく見るやつに似ている気がする
追記:日記を使って言語化できた
コワーキングスペースで考え事していて、営業時間内に今日やろうとしている仕事が終わらなさそうだからネカフェに行って作業をしようと考えた時、「行きたくない」と感じる僕がいた
今回書いた「緊張+不安」に当てはめると
日記が中々まとまらず「緊張」している
+(プラス)
仕事の作業が後ろにズレることで納期的な「不安」を感じる
って状態が「行きたくない」と感じた時の僕
だけど、問題は「不安」
「緊張」する日記の作業を切り上げて、「不安」な仕事をすれば良い
「行きたくない」は「不安」を感じているから起きるわけで、「不安」を感じないように「不安」の中に頭から突っ込めば「不安」を感じない
そうすれば「行きたくない」って思わない
だって、「不安」を感じないから
って、今回の日記を活用して言語化した途端に、「行きたくない」という感覚が無くなった
早速活用できて嬉しかったから、書いておく
しかし、「不安」は漠然と感じていると「不安」に感じるが、はっきり認識すると「不安」に感じないものなのかもしれない
感覚的なことは言語化がむずいわ