日記

否定について

何かを否定をすることは意味がないんじゃないかって考えているんだけど、この考え方自体が既に「否定をすることを否定をする」って感じで否定になってね?って思い、否定について気になったので書き出し。

否定をすることに意味がない理由

否定をすることが意味がない理由としては3つある。1つは否定をすることで物事の流れが悪くなるから。会社員時代の会議とか日常で否定したり否定されたりすると、余計な時間を浪費したり衝突があって物事がスムーズに進まなくなるから意味がない。

2つ、正しいかを証明するにはデータを提示する必要があるから。否定をして自身の正当性を主張しようとすると客観的なデータが必要で、それを用意しないのであれば個人の主観の上に成り立つ客観的な意見でしかなく、それはもはやただの個人の感想。けど、データを用意してまで正当性を主張したい機会はほぼないから否定は意味がない。

3つ、個人がいくら否定をしたところで集団の決定は変わらないから。少数派がいくら否定をした所で集団の決定は変わらないわけで、納得がいかないのであれば最終的にはその集団から抜ける事になる。だから、否定は意味がない。

といった理由から、否定って意味がないんじゃないかって思っている。

それでも否定はする

否定をすることは意味がないって分かっているのに僕は否定をする。特に、僕個人が不利益を被る場合には意味がないとわかっていても否定をする。例えば、会社の会議で僕の仕事が増えそうな決定が可決されそうな時は否定する。だって、仕事が増えるとか嫌だもん。

そういう、僕個人が不利益を被るなら否定をする。そしてそれは、僕自身の利益を守るという意味であれば否定することに意味があるということなんだと思う。けど、上にも書いた通り僕個人が否定したとしても集団の決定は変わらない。だから、意味のない否定。

んー、意味ある否定と意味のない否定がごっちゃになっている気がする。でも、否定は意味がないという感覚が強い。だとすると、何か別の視点で「否定は意味がない」って言っているんだと思う。そして、それはどうでもいいことに対する否定は意味がないと言っているんじゃないかと思う。

どうでもいいことを否定する意味はない

僕が「否定は意味ない」と言うのは、「どうでもいいことに一々反応して否定をする意味がない」という意味で言っているんだと思う。例えば、悪いことをした政治家が何も責任取らずに政治家を続けている時、イライラするが政治家が責任を取ろうが取らなかろうが僕の人生には何の影響もない。そのどうでもいいことに集中力と時間を割くという行為が無駄。なので、否定をすることは意味がない。こういう意味で「否定は意味がない」と言っているとすると腑に落ちる。

つまり、どうでもいいことに反応して、自分自身の時間を浪費するのを防ぐために「否定は意味がない」と言っている。だから、僕が不利益を被るような(どうでもよくない)ことに対しては、否定をする意味がある。それをすることで自分自身の時間を守ることができるかもしれないから。という具合に、「自分自身の時間(利益)」を中心に「否定は意味がない」「否定は意味がある」と言っているんだと思う。

なぜ、日記を書き出した?

じゃあ、なんで急に「否定は意味がない」って日記を書き出したのか?それは、上にも書いた通り時間を確保して目の前に集中するためなんだと思う。と言うのも、僕は「欲しかったモノを作る」という目的があって、それを作るために生きているのだが、ここ最近調子が良い。出来なかった事ができるようになって、少しづつその欲しかったモノに近づいている感じがあって、楽しさを感じている。なので、可能な限りそちらに時間を使うために「どうでもいいこと」を無視する必要がある。だから、「否定は意味がない」と日記を書き、そちらに集中力を割かないように言い聞かせるのが目的なんだと思う。

そして、「否定が意味がない」と言い聞かせるのは、否定をするというのが熱中しやすいからなんだと思う。それは、ネットを見ると明らかで、誹謗中傷に溢れている。そして、熱中できるような何かの多くに否定がある。スポーツやゲームであれば対戦相手を否定するし、日常生活であれば政治家や上司に気に食わない同僚を否定する、何かに熱中している時の多くに否定があり、その否定がトリガーになって熱中が起きている気がする。だから、どうでもいいことを否定し、そのどうでもいいことに熱中してしまい、目の前の作業に集中できないのは僕にとってデメリット。だから、「否定は意味がない」と言い聞かせることで、どうでもいいことに熱中するのを防ぐ目的があるということなんだと思う。

そう考えると腑に落ちるかな。

おまけ:否定をする理由

そもそもなんで否定という概念があるのか?

それは、集団を作るためなんじゃないかって思う。人間は集団を作って生活する生き物で、最も効率的に集団を作ろうとすると「共通の敵」を作るのが手っ取り早い。それをすることで集団は同じ方向を向きコントロールがしやすくなる。否定というのは人間の生存本能的なモノだと考えると合理的なのかなぁって思う。

そして、僕が「否定をする意味がない」と言うのは、集団を作る必要がないという面もあるんだと思う。というのも、集団を作ったらその集団を維持するためのコミュニケーションが必要で、そのコミュニケーションがそもそも僕にとって時間の無駄。なぜなら、僕は「欲しかったモノを作る」という目的で生きていて、それは僕の中にあって外に無い。それを作る上でしないといけないのは自問自答であって他者とのコミュニケーションじゃない。だから、否定をしないって考えると合理的なのかなぁって思った。

とは言え、自分自身が不利益を被る時は否定をする。それは、自身の持つ利益を守ろうとしての行動だが、利益を守ろうとすると一人より複数人(集団)の方が守りやすい。否定は意思表示で、集団を作る合図。否定をすることで対立構造を明確化し、人が集まりやすい状況を作る。そして、否定という合図は出したが、結果的に人は集まらなかっただけで、利益を守ろうと思うと集団を作った方が守りやすいというDNAに刻まれた行動をした。否定というのは本能に基づく行動。だから、意味がないとわかっていながら僕は不利益を被りそうになると否定をする。そう考えると、否定をするのも当然なのかなぁって思う。

終わり

今まで「なんでこの日記を今書き出しているんだろう?」という疑問が表に出てくることが無かったんだけど、今回の日記でちゃんと理由があることが分かって面白かった。特に、こういう抽象的な気づきって「仕事でミスした」とか「夜中にゲームして寝るのが遅くなって後悔」みたいなわかりやすい現象が無く、唐突に「そう言えば…」って感じで気になったりするんだよね。だから、あまり意識することが無かったんだけど、清書して公開すると他の日記に影響を与えたりして「タイミングが良いなぁ」て度々感じていた。今回の日記でちゃんと理由があるってわかったから、今度から「なんでこの日記を今書こうとしているのか」についても考えて書こうと思った。

最初は「対立構造って重要な気がする」って気づきから始まり、この日記になったから気づきようがない気もするのだが、その辺も含めて考えたいかなぁ。

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