日記

面倒くさいと感じる理由

漫画の作業をしようとすると「面倒くさい」と感じて集中できなくなることがあって、なんで「面倒くさい」って感じるのか気になったので書き出し。

面倒くさいと感じる原因

勉強、仕事、漫画などで「面倒くさい」と感じることがある。なぜ、面倒くさいかを考えると必要性が低いから「面倒くさい」と感じている気がする。例えば、テストや納期が迫っていない時にする勉強や仕事。そういう時にする勉強や仕事はやる気が起きない。なぜなら、必要性が低いから。逆に、必要性が高い時。例えば、テスト前や納期が迫っている時に、「面倒くさい」とは感じない気がする。だって、必要が高くてやるしかないから。

そういった具合に、必要性の低さが「面倒くさい」を生んでいる気がする。

面倒くさいは思考が生んでいる

もう少し考えると、「面倒くさい」は「考える」ことで感じている気がする。というのも、必要性が高い低いは「考える」という行為で判別しているから。また、必要性が高い(テストや納期が迫っている)時、「考える」より先に手を動かしているから「面倒くさい」と感じないし、必要性が低い時は手を動かすより前に「考える」から「面倒くさい」と感じる。だとすると、必要性の高い低いが「面倒くさい」を生んでいることの説明もつく。なので、「面倒くさい」は「考える」という思考が生んでいるんだと思う。

考えなければ面倒くさいとは感じない

じゃあ、「考える」という行為を行わなければ「面倒くさい」と感じないのか?たぶん感じないと思う。なぜなら、呼吸を面倒くさいとは感じないから。生理現象など無意識に行う行動で「面倒くさい」とは感じないが、それを意識し考え出すと「面倒くさい」と感じるように思う。だから、考えなければ「面倒くさい」とは感じないんだと思う。

同時に、考えないのは不可能だと思った。というのも、無意識で行える行動は生理現象くらいで、仮に工場のライン作業のように無心で行動できるようなライフスタイルを手にしたとしても、疲れたり飽きたりして「いつ終わるんだろう」「自分の人生はこのままでよいのだろうか」などと考え出す。だから、考えないで行動し続けるのは基本無理なんだと思う。

なので、考えなければ「面倒くさい」とは感じないが、考えないで行動し続けることはできず、どこかで考え出すので「面倒くさい」からは逃れられない。

何に対して面倒くさいと感じるのか

「面倒くさい」からは逃れられないとすると、何が「面倒くさい」と感じさせるのか?それは、十中八九ストレスなんだと思う。勉強や仕事や漫画の作業をしていて「面倒くさい」と感じるのは、大体「やったことがない」「わからない」みたいなストレスと対峙する時。なので、ストレスと向き合う時に「面倒くさい」と感じるんだと思う。

とは言え、子供の時のお使いは面倒くさかった。行ったことがあるお店で、買うモノがわかっていて、大して時間がかかるわけでもないのになぜストレスを感じたのか?それは、ゲームをしている時にお使いを頼まれ、ゲームをし続けることができない「思い通りにならない」ことによるストレスが「面倒くさい」と感じさせたとすると説明がつくように思う。

なので、「思い通りにならない(かもしれない)」ストレスと向き合う時「面倒くさい」と感じるんだと思う。

面倒くさいことの何が悪いのか?

じゃあ、「面倒くさい」と感じることは悪い事なのか?ここまで「面倒くさい」を悪いモノだと決めつけて考えて来たけど、具体的に「面倒くさい」の何が悪いのか?

それは、否定をすることで「正常な判断ができなくなる」ことが悪いんだと思う。というのも、「面倒くさい」は否定的な言葉で、何かを否定するとそれを否定的に見て正常な判断がしづらくなる。例えば、「勉強が面倒くさい」と勉強を否定すると勉強を避けるようになる。けど、勉強は将来の自分の選択肢を増やす行為で、世間一般的には勉強は良いモノ。「面倒くさい」と否定することで、それを正しく見ることができなくなり、正常な判断ができなくなるから「面倒くさい」と感じることは悪いのかなぁって思う。

正常な判断とは?

では、正常な判断とはなんなのか?それは、「すべきか否か」という必要性を基準に判断することだと思う。勉強であれば「勉強をすべきか否か」という判断が正常で、「勉強が面倒くさい、だから勉強をしない」という判断は正常な判断ではないんだと思う。

言い換えるなら、必要性で判断する「すべきか否か」は客観的な判断で、「面倒くさい」は主観的な判断なんだと思う。否定をし、視野が狭まっている主観的な判断より、否定をせず、視野広く見ることができる客観的な判断の方が良い結果を導くことが多いいと思うから、客観的な判断である「すべきか否か」で判断をした方がいいんじゃないかと思う。

まとめ

まとめると、僕が「面倒くさい」と感じるのは、「思い通りにならない」というストレスと向き合うことを「考える」ことで感じる。そして、「面倒くさい」と感じることは悪い事。なぜなら、「面倒くさい」と感じることで否定的にそれを見るようになって正常な判断ができなくなるから。そして、正常な判断とは「面倒くさい」ではなく「すべきか否か」という必要性で判断すること。って感じ?

とは言え、必ずしも「面倒くさい」が悪いモノってわけではないとも思う。だって、「面倒くさい」からは逃れられないし、常に「面倒くさい」は傍らにあり続けるわけなので、「悪」だと決めつけるのは「生きているだけで犯罪者」みたいな状態なのでおかしい。となると、僕は「面倒くさい」を悪いモノだと決めつけたいんだと思う。なぜかと言うと、「面倒くさい」は集中力を乱したり、行動を抑制するブレーキのような役割をするから。何か行動をする度にブレーキがかかって邪魔なんだろうね。だから、なんとかしてこのブレーキ取っ払えないかなぁって考えての日記だとすると納得。そして、このブレーキを取り外すことは不可能だとわかった。

終わりに

んー救いがねぇ…。絵を描くのがガチで嫌いでストレスが凄いんだけど、それと向き合おうとすると凄く「面倒くさい」と感じるが、何も出来ねぇって救いがねぇ。ただ、治療はできないが対処はできるんかなぁって思う。というのも、漫画の作業をしている時にyoutubeのバックグラウンド再生とかしたりして、それを聞きながら作業をすることがあるんだけど。その時って考えていないんだよね。youtubeのバックグラウンド再生しながら作業をしている時は、考えていないから「面倒くさい」とは感じないわけで、そういう対処療法的な方法でブレーキをかけないようにすることはできるというか、しかないんだと思った。

あとは、分業制にすることなのかなぁ?「考える」と実際に「手を動かす」を分けるって話。というのも、漫画を描く時には考えないで無心で手を動かして、何か腑に落ちない上手く行かないと感じることは手を動かさない時に考えるって感じの分業。というのも、僕の本業はプログラマーなので、絵を描く時間以外の方が多くて、コードを書くためのテキストエディタと向き合う時間の方が多いい。なので、漫画で上手くいかない時ってテキストエディタ上で「なんで上手くいかないのか?」って感じで考えたりするんだけど、これをやっている時は「面倒くさい」とは感じないんだよね。なんというか、手を動かす対象(漫画)と考える対象(漫画)が一致する時に「面倒くさい」と感じるのであって、手を動かす対象(仕事)考える対象(漫画)という感じでズラせば「面倒くさい」とは感じないから、こういう感じで「手を動かす」と「考える」を分けることでも「面倒くさい」を回避できるのかなぁって感じた。

実際、この分業制度は結構しっくり来ていて、漫画の作業をしない時に考えて、漫画の作業をする時には考えないで作業をするようにすれば、ブレーキ無しに作業ができる気がする。というか、プログラミング(仕事)でやっているわ。手を動かす前に考えて、手を動かす時には考えないでコードを淡々と打ち込んでいる。厳密には全く考えていないわけではないけど、ストレスを感じるような「面倒くさい」モノは事前に考えて、手を動かす時にはストレスを感じないようなことを考えている。

とはいえ、漫画って描いてみて「なんか違う」って感じで手を動かしている時に問題が発生するんだよね。事前に、ストレスを検知できない面がある。この辺は仕事と同じで経験を重ねるしかないのかもなぁ…

おまけ:「面倒くさい」がなぜあるのか?

「面倒くさい」について考えていると、このブレーキ機能いらなくね?って感じるわけなんだけど、そもそもなんでこの機能があるのか気になった。存在理由としては、「エネルギーをそこに使うべきか?」という必要性を判断するためにあるんだと思う。というのも、昔は今ほど食べるモノがあったわけじゃないから、なんでもかんでもやっていたらエネルギーが無くなって餓死しちゃう。だから、「面倒くさい」というブレーキ機能が存在していると考えると合理的。けど現代、特に先進国で飢え死ぬことはほぼないわけで、ブレーキ要らないと思うんだよね。だから、「面倒くさい」って感じる必要性無いと思う。

じゃあ、なんで現代でも「面倒くさい」というブレーキが存在するのか?それは、あっても別に困らない事が大きいのかもしれない。だって、「面倒くさい」と感じても、テスト前や納期が迫っているなど必要性が高ければ「面倒くせー」って言いながら行動をする。また、全ての人間が「面倒くさい」と感じて「面倒くさい」と感じる人達が社会などのコミュニティを作っていて、同じように「面倒くさい」と感じ、ブレーキをかけまくったとしても自分だけが凄く困るような事にはならない(だって、みんなブレーキかけまくっているわけだから)。そういう感じで、困らないから「面倒くさい」という機能が存在し続けるんだと思う。

そして、これは現代が豊という証明なのかなぁって思う。だって、昔は食料が少なく「面倒くさい」なんて感じてブレーキかけていたら餓死をしてしまう。だから、毎日のように食べるものを探しに行ったり狩りをすることで「面倒くさい」とは感じなかった。けど、備蓄ができるようになって余力ができたから「今日は面倒くさいし、しなくていいか」って感じで、余計なエネルギーを使わないようになった。だから、多くの人が「面倒くさい」と感じるのも余裕のある人たちが増えたという話で、現代はとても豊な時代なんだと思う。

また、「面倒くさい」の語源を調べると、平家物語とか出てくるから1200年くらいには「面倒くさい」という価値観があったんだと思う。まぁ、公家みたいな農民から食料を巻き上げる連中がいたわけで、上は余裕あるよね。

なので、「面倒くさい」というブレーキ機能は困っていないから無くならないし、余裕があると生まれるモノなので、無くすことは不可能なのかなぁって思う。それに、普通に生きるならあっても困らんしね。というか、普通に生きるために「面倒くさい」は必須と言い変えることができるね。そう考えると「面倒くさい」って感じない人いるんかなぁ?会ってみたいって思った。というか、居たとしたらコミュニケーション取れねぇわ。だって、「考えない」無心で行動しているような状態の人間なわけで、植物人間か、本能で行動する人間だから、コミュニケーションは取れないね。

おまけ:愚痴

なっげぇわ!清書しきるのに1ヶ月くらいかかった。抽象的過ぎるし色々な視点が混ざりあってて整理整頓が凄い大変だった。けど、僕的には凄い助かる重要な気づきということもあってか、優先的に作業をしてなんとか形にすることができた。あと、久しぶりに楽しかったなぁ。この気づきについて考えていたら色々と他の気づきにも出会えたし、僕の行動や姿勢に影響を与える気づきなんかもあったから楽しかった。なんというか、大変さに応じた報酬があったという感じ。なので、やりがいがあったから楽しかったのかもしれない。また、解放感がある。やっと他の日記の作業に入れるって感じ。漫画の方もあと少しで9話が描き切るのもあって、そっちは4ヶ月くらいかかっているからこれ以上の解放感があるのかなぁって思うと楽しみ。以上、愚痴でした。

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