面倒くさいとやりたくないの違い
少し前に「面倒くさい」について考えたんだけど、似た表現で「やりたくない」ってのがあって何が違うんだろうって思ったので書き出し。
違い
違いとしては「否定の強さ」が違うのかなぁって思う。というのも、「やりたくない」は強めの否定で「面倒くさい」は弱めの否定って感じの否定の強さに違いがある気がする。例えば、「勉強をやりたくない」と「勉強が面倒くさい」だと前者は「絶対にやりたくない」というニュアンスがあるけど、後者は「条件次第ではやってもいい」といったニュアンスがある気がする。なので、否定の強さの違いがあるんだと思う。
結果はどちらも同じ
上で、「やりたくない」には「絶対にやりたくない」というニュアンスがあると書いたけど、やらざるを得ない状況になればやりたくなくてもやるんじゃないかと思う。例えば、「勉強をしたくない」としても勉強をしなければ家から追い出すと言われれば勉強をするし、勉強をすれば欲しい物を買って貰えるのであれば我慢して勉強をする。という具合に、「やりたくない」「面倒くさい」どちらも条件や状況次第では結果的にやるのだから、それらには否定の強さの違いしかないんだと思う。
自分の中でのみの否定
そして、これら「やりたくない」「面倒くさい」という否定は自分に強く効力があり、他人に対しての効力は薄い。どんなに否定をしたとしても条件や状況次第ではやらざるを得ないわけであまり意味のない否定なんだと思う。更に、「やりたくない」「面倒くさい」という否定は2重のストレスを生んでいて良くないんじゃないかって思う。
2重のストレス
2重のストレスが何かというと、1つのストレスだけで済むのに、「やりたくない」「面倒くさい」と否定をすることでもう1つ余計なストレスを感じているということ。例えば、勉強でわからない所で躓くとストレスを感じる。これが1つ目。そして、勉強を「やりたくない」「面倒くさい」と否定をし「やりたくない勉強」「面倒くさい勉強」をせざるを得ないというストレスが2つ目。本来なら、わからないというストレスだけだったのに、否定することでもう一つ余計なストレスがプラスされる。これが2重のストレス。
「やりたくない」「面倒くさい」と否定をしなければ1つのストレスで済むのに、「やりたくない」「面倒くさい」と否定をしてしまうことで余計にストレスを感じるのだから「やりたくない」「面倒くさい」は無駄なんじゃないかって思う。
対処方法
とは言え、「やりたくない」モノはやりたくないし、「面倒くさい」モノは面倒くさい。意識して変えられるモノでは無い気がする。じゃあ、どうするか?って考えると、「とりあえずやる」しかない気がする。結局のところ「やりたくない」「面倒くさい」って感じる何かがそこ(勉強とか)にあるわけで、それと向き合い問題点を潰すしか改善する方法はない。だから、とりあえず行動することでしか2重のストレスを潰す対処方法は無いんだと思う。
まぁ、そもそも「やりたくない」「面倒くさい」ことからは逃げ切るというのも手段としてはあると思うんだけど、勉強みたいに自分の人生の選択肢を増やす行為から逃げるって自分の人生にとって良いことは無いと思う。だから、「とりあえずやる」しかないんじゃないかなぁと思った。
終わりに
会社員時代に「やりたくねー」「面倒くせー」ってよく口に出していたわけなんだけどさ、この状態は2重のストレスを感じているわけで良くなかったんだろうね。すべきは「かしこまりました」って否定せずに依頼された仕事を黙々とこなすことだったんだと思う。
で、思い返すと会社員時代の同僚に凄いストレス耐性がある人がいたんだわ。上司と僕に挟まれているディレクターさんだったんだけど、上司からは無茶難題を押し付けられて、僕からは「そんなん出来ねぇーよ」って怒鳴られてって感じで可哀想なポジションの同僚だったんだけど、その人は否定をしなかった。上司に良く怒られるのを見ていたんだけど、僕だったら「は?っざっけんじゃねーよ!」ってキレ返す所を我慢して耐えてて「スゲー」って思った。けど、今回の日記を書き出して見て、それは2重のストレスを避けるという正しいストレスへの対処をしていたんだって思った。
ただ、その元同僚はストレス耐性は強いんだけど、仕事自体は最低限って感じだったんだよね。「やりたくねぇけど、やるからには最高のモノを作ってやるぜ!」って感じは一切なかった。だから、守備力が高いビッグシールドガードナー的な存在だったんかなぁって思う。
まぁ、なんにせよ「やりたくない」「面倒くさい」と否定することで得られるメリットは無さそうだし、極力否定せず「とりあえずやる」ように意識しようと思う。