否定と肯定
否定は良くないよねって思ったので書き出し。
否定は良くない
否定が良くない理由は、否定をすると正常な判断ができなくなるから良くない。例えば「勉強が嫌い」と否定をすると勉強の悪い面ばかりを見て勉強を遠ざけるようになる。けど、勉強は自分自身の将来の選択肢を増やす行為で自分自身にとっては良いこと。そんな自分のためになることを遠ざけるのは良くないし、それは正常な状態で判断できているとは言えない。なので、正常な判断ができなくなる否定は良くない。
否定と肯定は表裏一体
否定をするのは良くないが、肯定も良くない。なぜなら、否定と肯定はコインの裏表のようなモノだから。例えば、勉強を否定したら「遊ぶのは今しかできないから」と遊びを肯定し出す。何かを肯定しているということは同時に何かを否定していて、何かを否定している時には何かを肯定している。という具合に、否定と肯定は表裏一体の関係性がある。そして、否定は正常な判断ができていない状態なのだから、肯定も正常な判断ができていない可能性があるため良くない。
正常な判断とは必要性での判断
否定と肯定のどちらも正常な判断ができていないわけだが、正常な判断とは何か?それは、「すべきか否か」などの必要性で判断することだと思う。例えば、テスト前に「勉強すべきか否か」と必要性で判断をする。もし、勉強以上に優先すべきことがあればそちらを優先すればいいし、勉強を優先した方が良ければ勉強をすればいい。そこには好き嫌いの否定や肯定はなく、その時の状況に合わせて必要性で動いている。これが正常な判断なんだと思う。
否定や肯定は意味がない
では、何のために正常な判断が必要なのか?それは、後悔をしないためなんじゃないかと思う。例えば、SNS。有名人が不倫して「悪いことだ!」と叩いたり、自国の選手が他国で活躍して「凄い!」と応援したりする。それらには意味がない。なぜなら、それをしたところで自分自身がお金持ちになるわけでもないしスキルが身についたり成長するわけではないから。その意味のない否定や肯定に自分自身の貴重な時間を使うのは後悔の元になる。なので、”今”の自分が必要としていることを確認するために正常な判断が必要なんだと思う。
否定と肯定は面白い
否定や肯定が意味がないのになぜするのか?それは面白いからなんだと思う。というのも、否定と肯定は対立関係なのでわかりやすい。そして、「面白い」と感じる物事の多くに否定と肯定がある。例えば、スポーツや対戦ゲームは面白い。それは、対戦相手という明確な敵(否定)がいるから面白い。そして、練習をすればするほど自分を肯定し、勝った時に嬉しいと感じ、負けた時に悔しいと感じる。という具合に、否定と肯定のコントラストが「面白い」を作っている気がする。
そして、そのコントラストが強ければ強いほど面白い。ただの敵ではなく因縁のライバルとの対戦であれば「こいつにだけは負けたくない」とより強く否定する。また、勉強や仕事が嫌いだから遊びや趣味が楽しくなる。という具合に、否定と肯定のコントラストの強さが物事をより面白くしている面があるように思う。
で、「すべきか否か」の必要性で動くのは面白くないんだと思う。だって、否定と肯定のコントラストが弱いから。それは、好きでも嫌いでもないどうでもいいチーム同士の対戦を見たりするような感覚に近いんだと思う。だから、否定と肯定が自分自身の人生にとって意味がないとは言え、面白いからそれらをすると考えると納得。
目的の有無
あとは、目的があるかどうかは影響している気がする。「すべきか否か」の必要性で動くのは、目的を達成するために必要だからの行動。例えば、「良い大学に入る」や「サッカー選手になる」みたいな目的があれば「そのためにどうすれば良いか?」と必要性で動くことができる。けど、社会に出てしまうとそういうわかりやすい目的は無い。大企業に入るにしても「どの業種のどの企業」やお金持ちになるにしても「どういう手段でお金を稼ぐ」など、勉強だけをすればいいわけではないし、サッカーをすればいいだけではない。そこには多種多様な方法があり、どれを選べばいいかわからないため分かり辛い。だから、目的を持ちたくても持ちづらいんじゃないかと思う。
そうなると、今日が楽しければいいやって考え、否定と肯定のコントラストが強い何かに熱中し出すのかなぁって思う。つまり、わかりやすい目的が無ければ必要性で動くのは難しいんだと思う。
終わりに
途中からまとめるの諦めた。否定みたいな抽象的な概念を考え出すと無限に広がっていくからまとめるのが難しいね。特に、否定って人間であれば誰でも感じるモノだから他人に対して言及し出すわけだけど、人によって感じ方は異なるし様々な意見に視点があるわけで、それらを考慮し出すと答えが出せなくなっちゃう。だから、まとめ辛かった。なので、もういいやってあきらめた。
で、書いてる時に気になったけど、「幸せ」も否定と肯定と同じ比較だよなぁって思った。というのも、健常者であることを幸せだと感じるのって障害者と呼ばれる人と比較をした時で、他人との比較無しに幸せは感じられない気がした。もちろん、他人との比較だけじゃなくて、結婚や何かの賞を受賞するみたいに、状況の変化でも幸せを感じる事はできると思うんだけど、「幸せ」だと感じている時の多くは他人との比較な気がするから、「幸せ」を感じている状態は正常な状態ではないんじゃないかって思った。
なんというか、「他人との比較」そのものが正常な状態ではないんじゃないかって思う。「勉強が嫌い」も他人と比較して上手くできないから嫌いになるわけだし、そういう自分の外に判断基準を置いている状態が良くないんだと思う。なので、目的を持ち、自分の中の「すべきか否か」の必要性に合わせて行動をした方が結果的に後悔をせず「幸せ」なんじゃないかって思った。