フリーハンド
ちょっと面白い気づきがあった。というのも、僕がフリーハンドでこだわる理由が面白かった。
フリーハンドにこだわる理由
僕は、漫画を描く時に背景などを極力フリーハンドで描きたいってのがある。それは、僕の理想に近いのがフリーハンドの線だから。というのも、僕の頭の中にあるイメージは抽象的で、定規で引いたような真っ直ぐな線ではなく、フリーハンドのようなぐにゃぐにゃした線で構成されている。だから、頭の中にある理想のイメージに近い線ということで僕はフリーハンドにこだわっている(つもりだった)。
けど、実はそれが「違うんじゃないか?」ってことがわかった。
フリーハンドにこだわる本当の理由
僕がフリーハンドにこだわる本当の理由は、現実世界が真っ直ぐな線で構成されておらず、フリーハンドのような線で構成されているからなんじゃないかって思ったんだよね。
なぜなら、現実世界って漫画のような「黒い線(輪郭線)」が存在せず「色」で構成されている。その「色」には膨張色や収縮色などがあり、実物より大きく見えたり小さく見えたりする。そして、「色」が人やモノの境界線を作り、その境界には色々な色のグラデーションが存在する。という具合に、現実世界は定規で引いたような「真っ直ぐな線」で構成されていないし、クッキリハッキリ綺麗に境界線が分かれているわけでもはない。どちらかと言うと、フリーハンドの見え方の方が近いんだと思う。
だから、僕はフリーハンドにこだわっているって考えると凄い腑に落ちた。
認識が180度変わった
それと同時に、認識が180度変わった。というのも、僕の漫画における理想は「抽象的な印象を与える」ことで、それは「現実的ではない」という意味で捉えていた(だって、現実を指す時に「抽象的」ではなく「具体的」という言葉を使うから)。けど、今回の気づきで僕が目指しているのは「現実的(抽象的)な印象を与える」漫画で、現実世界は漫画より抽象的なんだって気づかされたのは本当に面白いと思った。
わかればいい
また、僕は「わかればいい」「伝わればいい」と考えて漫画を描いているから、「綺麗に描く」ということをしない。それも現実世界が抽象的だからで、無意識に僕は漫画に現実と同じ抽象さを落とし込もうとしているってのは驚いた。
ただ、これは僕だけの可能性もある。僕の一人称の視点は、人やモノの形などを「なんとなく」で捉えている。だから、人やモノを紙の上に描いたとしても「人(モノ)として認識できる何か」しか描けない。人間の中には見たものをそっくりそのまま紙の上に描ける人もいるわけで、僕だけが「なんとなく」の認識で見ている可能性もある。
とはいえ、僕の現実はそういう見え方をしているわけなので、その僕が見ている「わかればいい」「伝わればいい」という現実の抽象さを漫画に落とし込もうとしてるのは間違い無いんだと思う。
非現実的
現実世界が抽象的だとすると、僕が漫画を好きなのも言語化できる。なぜなら、漫画は現実と比べて具体的だから。人やモノは「黒い線」で輪郭を描かれ、定規で引いたような真っ直ぐな線が存在し、全てがクッキリハッキリと綺麗に分かれている。それは非現実的だから面白い。
だから、漫画が好きだとすると納得。だって、最も身近な現実(抽象)と対極にあるのが漫画という具体的なコンテンツだから。
「固さ」
また、僕は漫画を描く時に「固さ」を感じていた。それは「真っ直ぐな線」や「綺麗な線」に対して感じていたわけだけど、それも現実世界は抽象的でそれら具体的な線は現実には存在しない。だから、「固さ」を感じる。とすると「固さ」を感じるのも当然なんだと思う。
という感じで、今まで感じていた違和感が全て言語化できる発見で凄い面白いと思った。
懸念点
ただ、懸念点もある。というのも、僕のやっていることって漫画を現実世界の見え方に寄せるって行為で、非現実的だから面白い漫画における面白さの1つを失わせる行為なんじゃないかって思うんだよね。
とは言え、非現実的なデフォルメのキャラやストーリー展開など、漫画の存在自体が非現実的だし、大した影響がないとも考えられる。
それに、みんなが丁寧に綺麗に描いている中でフリーハンドという逆を行くのは、マイノリティなわけだしそういう希少性である程度カバーできるのかなぁって思った。
現実に寄せようとする理由
けど、そもそもなんで現実の見え方(抽象的)に寄せようとするんだろう?元々僕が漫画を描いているのは今描いている作品(花花)の次に描く予定の作品が面白いと思ったから。そして、その作品は漫画のような具体的な見え方ではなく、現実やフリーハンドのよう抽象的な見え方でないと駄目。だから、次の抽象的な作品を描くのが目的で、別に現実に寄せようとはしていないんだと思う。
そして、次の作品を描くための試金石が今描いている作品だから、次の作品のためのテストとして抽象的に描いてるんだろうね。そう考えると納得かなぁ。あとは、単純に絵を描くのが嫌いで楽しくないから普通に描いても面白くないし、表現の幅を持ちたいからフリーハンドで抽象的に描いている面もある。
終わりに
9.5話の背景をフリーハンドで描いてて、フリーハンドでもそんなに違和感が無いのと、今まで感じていた「固さ」が取れたから、なんでなんだろう?って考えだしたら出てきた気づきだった。しかも、この気づきって船で言ったら竜骨の部分で、人間で言うなら背骨の部分。全体を支える部分だから、その部分を言語化できたのはマジででかいわ。もしくは、ラフテルだったり目標や目的までの行き方がわかるようなモノだから凄い大きい気づきなんだけど、実感があまりないんだよね。なんでだろう?
それは、労力がかかることには変わりが無いからなのかもしれん。実際、そこまで行く手段や方向がわかったとしても労力をかけて行かないといけないわけだし…。とすると、僕の中で「労力」がもっとも大きな問題なのかなぁ?
実際、漫画においては「なぜ違和感を感じる?」「どうすれば違和感を無くせる?」といった、後の「手間(労力)」を減らせるような気づきの方が嬉しいと感じる。だから、「労力」を削れるような気づきの方が重要で、今回みたいに進む手段や方向がわかったくらいだと労力は対して減らないからあんま嬉しくないのかもしれない。
あと、薄っすらと手段や方向を理解してたのもあるのかなぁ。「抽象的な印象を与える」という理想が現実での見え方と同じだと分かったとしても、目指している「抽象的な印象を与える」は変わっていないし、僕自身もそれが間違っているなど微塵も考えてなかったから、言語化できたとしても確信が超確信に変わった程度の変化しかない。だから、思ったほど嬉しくないのかもしれない。
とはいえ、痒いところに手が届いたような大きな気づきであることに変わりはないけどね。