意識するから元気になる
日記で何かに気づいたり、新しくストレッチとかを始めたりすると数日間元気になって、1週間くらい経つと元に戻るのが不思議なので書き出し。
なぜ元気になるのか?
元気になる理由についてはポジティブな変化があるからだと思う。
ストレッチをすると今まで伸びなかった筋肉が伸びるし、日々の気づきを言語化できると普段の景色が変わる。
そういうポジティブな変化があるから元気になるんだと思う。
なんで切れるのか?
じゃあ、そのポジティブな変化による元気がなぜ切れるのか?
これは慣れるからだと思う。普段伸ばさない筋肉も毎日伸ばせばほぐれてしまうし、気づきによる景色の変化についてもそれが当たり前になって慣れる。
だから切れるって考えると腑に落ちる。
あとは、それらが当たり前になって別の問題が出てくるから元気な状態が切れるんだと思う。
元気で居続けるのは難しい
だとすると元気な状態を維持するのは難しいんだろうね。また、考え方を変えると常にネガティブな変化が起きているから元気な状態を維持するのが難しいのかもしれない。
というのも、人間は加齢による衰えや使わない知識はどんどん忘れていく。年を取ることでできたことが出来なくなったり、学生時代に学んだことを忘れる。
より短い期間であれば、朝から夜、週明けから週末に向かい疲労が蓄積し、動きが鈍くなるというネガティブな変化が毎日毎週起きている。
そういうネガティブな変化が水面下で常に起きているから元気な状態でいるのが難しいのかもしれない。
元気で居続ける方法
じゃあ、元気な状態を維持し続けるためにはどうしたら良いのか?って考えると、ポジティブな変化を取り続ける事なのかなぁって思う。
というのも、元気になろうと思うと、早寝早起き、運動、勉強、健康的な食事などポジティブな行動を取る必要がある。けど、これらの行動は全て意識して行わないと取ることができない。意識をしなければ昼夜逆転、運動しない、不勉、暴飲暴食と言った具合に元気とは真逆の行動を取る。
という具合に、元気で居続けるためには意識してそういうポジティブな行動を取り続ける必要があるんだと思う。
リソース不足
とはいえ、そういった行動をし続けられない。
何故かって考えると、脳のリソースが足りなくなるからなんだと思う。週明けのようにリソースの余裕があれば、そういったポジティブな行動を意識し取ることができるけど、週末のような余裕がない状態になると脳のリソースが足りず意識できなくなる。
また、必要性の有無なんかも関係している。それらポジティブな行動を取らなくてもすぐすぐ困るようなことにはならない(日々ネガティブという毒で体が蝕まれているが即効性はない遅効性の毒ってイメージ)。すぐに対処する必要がないこともあって、リソースを割きづらく、ポジティブな行動をとり続けることができなくなるのかなぁって思う。
なので、元気で居続けるというのは思っている以上に難しい。それこそ老後のように時間やリソースに余裕がないとできないのだと思う。
終わりに
とりあえず、意識するから元気になるってのは間違いない。だって、意識しなければ昼夜逆転、運動しない、暴飲暴食で不健康、成長しない。って感じでポジティブな変化ないもん。
けど、そういうポジティブな変化を取り入れようと思ったら意識する必要があるが、脳のリソース(余裕)がないとできない。
だから、爺さん婆さんみたいな余裕のある人って健康的な生活を送っているのかもしれない。早寝早起きや適度な運動や健康的な食事ってThe老後ライフそのものだしね。そりゃ長生きもするわ。
逆に、現役世代は余裕がないから不健康な生活を送る。けど、元気な人は元気。
なんでかって考えると若いからなんだと思う。体が若くある程度のネガティブな変化があっても体内で浄化(処理)して元気な状態を維持できる。だから元気。
けど、その浄化システムも年とともに老朽化。処理能力が下がりネガティブ成分を処理しきれなくなって、病気のように形を変えて表に出てくるのかなぁって思う。
それが大体40前後?昔の平均寿命って40前後みたいな話もあるし、女性が子供を産めるのも大体その辺までってのがあるように、人間は40くらいまで生きる想定で作られていて、それ以上は知らんって話なのかもしれない。
それに、生命の危機に直面すると生存本能が働くけど、不健康な生活を送っていても生存本能って働かないんだよね。良くない生活しているなぁって思うけど本能が「変えなくちゃ!」って感じない。それも人間が40前後くらいまで生きる想定で、それまでは体内の浄化システムがなんとかしてやるよ!ってシステムで組まれているから生存本能が働かないって考えると納得かな。
で、40以降に病気に罹ったとわかり、死にたくないから「変えなくちゃ!」って生存本能が働くわけだけど、その頃には大体の人間が子孫を残していて、いつ死んでもいいって状態なのかもしれない。人間って上手く作られてんだなぁーって思った。
とりあえず、ポジティブな変化を取り入れ続ければ元気で居続けることはできるけど、それをするのは中々難しいってわかった。頑張って意識して行動し続けようと思う。
おまけ:ポジティブとは?
そもそもポジティブな変化をなぜポジティブだと捉えるんだろう?
元気であった方が生存確率が上がるから人間としてポジティブなのはわかる。けど、昼夜逆転、運動しない、暴飲暴食というネガティブな行為に対して「それは良くない、辞めるべきだ」って本能は大して反応しない。それらネガティブな行為をしても改善するために動こうとしないんだよね。
上にも書いた通り、それは体内の浄化システムがネガティブをある程度浄化してしまうからシステム上そう思わないんだと思う。
だとすると僕の感じているポジティブって視点が違う気がする。「生きる」上で元気をポジティブに感じるのではなく、「”集団内”で生きる」上での元気をポジティブに感じている気がする。
というのも、人間は集団で生活する生き物で、元気であった方が集団内で役に立てるし価値がある。それこそ早寝早起きで遅刻しない、運動しててキビキビ働く、常に新しいことを学ぶ、健康的で清潔な見た目。これら行為をポジティブに感じるわけだけど、ただ「生きる」というよりは「集団内で生きる」って方がしっくりくる。
仮に、無人島でそれらポジティブな行動はポジティブなのか?早寝早起きや運動や勉強や健康的な食事が無人島において価値があるのか?って考えるとそこまでポジティブに感じない気がする。だって、その日生きるので精一だし、その環境においては誰かが助けに来てくれることがポジティブだから。ということは、僕の感じているポジティブというのは人間社会という集団内で生きる上でのポジティブなんだと思う。
まとめると、僕が感じているポジティブな変化は、社会という集団に属している状態でのポジティブ。それは自身の価値を上げることを指し、集団内での生存確率を上げることが目的。その目的に近づく、達成できることで「僕が(集団から)追い出されることはない、なぜなら価値があるから」と安心感を感じると元気になるのかなぁって思う。
だとすると、老人が健康的な生活を送るのも他人に迷惑をかけることで(集団内での)自身の価値が下がることを恐れているってことなのかもしれない(山に捨てられたくないし)。逆に、現役世代が不健康な生活を送るのも、既に社会に居場所があって十分な価値を証明できている安心感を感じているからって考えると納得かな。
これはややこしいわ。まだまだ掘り下げられそうだからどっか別の日記で書きたいかも。