楽しいの違い
夜中にゲームをし出して寝れない奴シリーズの続き
ゲームは楽しいんだけど、「日記」などの考え事も楽しい
けど、どっちをしたい?って考えるとゲームを選ぶ
なぜか?
労力があるかないかの違い
ゲームと日記の違いは「労力」があるかないか
ゲームには労力が無く
日記には労力がある
どちらも楽しいなら、「労力」がないゲームを選ぶ
労力はマイナス
どちらも楽しいのに労力が無いゲームを選ぶ
ということは、「労力」をマイナスに考えているんだと思う
なぜか?
単純に疲れるからマイナス、という理由以外に他人との比較があるように思う
労力をかけて楽しんでいる反面、労力をかけないで楽しんでいる人がいる
比較して「労力」をかけてる分損をしていると感じているんだと思う
ダイヤを買うかダイヤを掘るか
ちょっとわかりにくいから、「例え」を使って視覚情報に変換してみる
ゲームの楽しさは「ダイヤモンドを買う楽しさ」
日記の楽しさは「ダイヤモンドを掘る楽しさ」
日記は、ピッケルを掘る分「労力」が発生して疲れる
ゲームは、その「労力」をかけずにダイヤを買うことができる
同じダイヤモンドを手にすることが目的なら、「労力」がかからない「買う」方がいい
だから、「ゲーム」と「日記」
2つの選択肢がある時に僕はゲームを選ぶんだと思う
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僕が欲しいのは「お金で買えないダイヤモンド」
僕は「日記」を書くのが楽しいが、そもそも目的があって書いている
それは、「お金で買えないダイヤモンド」を掘るため
それは掘ることでしか手に入らない
だから、僕はピッケルを振るっている
その「お金で買えないダイヤモンド」を掘る過程で、目的ではないダイヤモンドが出てきて楽しさを感じている
これが、「日記」の楽しさ
目的のダイヤモンドを手にするために日々ピッケルを振るっていて
「労力」をかけてピッケルを振り続けるしかないんだから、「労力」をマイナスに感じたり、ゲームと日記の選択肢でゲームを選ぶのはおかしい気がする
そもそも、なんでゲームという選択肢が出てくるのか?
疲れている時に掘るのは無駄?
ゲームという選択肢が出てくるのは、疲れが関係している
なぜなら、僕は疲れている時にゲームをする
休日や仕事で疲れている時にゲームをする
それは、疲れている時に「日記」の作業をしても頭が回らず無駄だと考えているから
「掘ってもダイヤモンドが出ない気がする、だから今日はもう掘らない」
「けど、ダイヤモンドが出る喜びを感じたい、じゃあ買おう」
というような流れでゲームをしている気がする
けど、掘らなければ「お金で買えないダイヤモンド」が出ることはない
疲れていようがピッケルを振るえば前進するわけで、疲れを言い訳に掘らずダイヤモンドを買うのは違う気がする
そして、「労力」はマイナスではなく、食う寝るなどの生理現象のようなモノ
サッカー選手になるためにボールを蹴るようなモノ
マイナスではなく当たり前のモノ
マイナスという考えがそもそも違う
まとめ:誤認
誤認しているね
ダイヤモンドが欲しいわけじゃなくて、「お金で買えないダイヤモンド」が欲しい
掘っていると目的ではないダイヤモンドを見つかることがあり、それは楽しい
その楽しさに目を奪われて、当初の目的を見失っている
だから、ダイヤモンドを買う楽しさである「ゲーム」という選択肢が出てくる
そう考えると、腑に落ちるかな
実際、「楽しい」ってわかりやすいもんなぁ
視覚情報だったりして、誤認するのも無理ない気がする
とりあえず、ゲームなんかしてねぇで掘れ!
疲れ?寝ろ!
ってのが正解
終わりに
掘れ!とは言うんだけど、疲れは感じるんだよね
けど、思ったほど疲れていない気もする
というのも、ピッケルを握ればなんやかんやで掘りだすから
そして、ガチで疲れている時はゲームなんてせずに寝る
ゲームという選択肢が出てくるだけ、僕は余裕があるんだと思う
余裕があるなら、「日記」でも書いて少しでも「お金で買えないダイヤモンド」に近づくように掘る
これが大事ね