幸せと不幸せ
幸せと不幸せの定義って考えた事が無いので書き出し
幸せと不幸せの定義
まず、幸せか不幸せかを判別する基準は「不安」があるかどうかな気がする
というのも、幸せな時って不安を感じていないけど、不幸せな時って不安を感じていることが多いい気がするから
なので、不安があるかどうかで幸せか不幸せは判断ができるんじゃないか?
幸せな状態とは?
じゃあ、「不安」が無い時は具体的にどういう状態か?
それは、目的を持って行動をしている時だと思う
というのも、暇な時に不安を感じることが多いい気がするんだよね
けど、目的があるとそういう余計なことを考えている暇がないから不安を感じない
だから、目的を持って行動している時は幸せなんだと思う
目的無く進むことは不幸せ
例えるなら、大海原を目的地を目指して進むか目的地無く進むか、って例が個人的にはしっくりきた
というのも、目的地無く波任せ風任せにしていたら遭難すると思うんだよね
しかも、船に備蓄されている食料には限りがあるわけで、遭難してから目的地を設定しようにも、辺り一面水平線が広がっていたらそりゃ不安にもなると思うんだわ
不安を感じる人はそういう取り付く島もない状態なんじゃないかな?
この場合、波風は時間で、食料はお金とか寿命で、目的地は働く目的とか生きる目的って感じなのかもしれない
目的地を目指して進んでも不安は感じる
とは言え、目的地を目指して進んでいる人も、遭難する時は遭難する
けど、目的地を目指して進む人は、目的地にたどり着くために定期的に寄港して食料を調達しているわけで備蓄は十分ある
だから、その間になんとかすればいいと考えて不安を感じにくいのかもしれない
さらに、目的地を目指して進んでいる人は、多くの港に寄港をしているという成功体験があるわけでさ
仮に遭難したとしても「何とかなる」と己を信じて進み続けることができるんだと思う
で、真っ直ぐ1つの方向に進んでいれば島の1つ2つは見つかるわけで、余計に不安を感じにくいのかもしれない
目的無しに進む末路
逆に、目的を持ったことが無い人は、遭難して始めて島を探し始めるわけだけど
今まで、目的地を目指したことが無く進んできたから、遭難した時にどうすればいいか分からなくなるんだと思う
で、その場を右往左往して時間だけが経ち、不安が不安を呼んだりするのかなぁって思う
そして、その最終的な解決方法として自殺みたいな選択を取るのかなぁ?
実際、僕も学生時代の時は波任せで進んでいたけど、大学受験で行きたい大学がない、行く理由もないって感じでどこを目指せばいいかわからなくて自殺しかけたわけで、目的を持つことができるのは幸せなことなんだろうね
目的が無い場合の対象方法
じゃあ、目的がない場合はどうするか?
それは、不安を感じることを辞めれば良いんだと思う
具体的には、宗教に入ることだと思う
というのも、宗教に入っている人って遭難したとしても「神の思し召し」とか言って受け入れるイメージがあるんだよね
それに、不安って伝播するわけだけど、神様を信じている人はさっきも書いた通り「神の思し召し」ということにして、考えることを放棄するから不安に感じないから不安が伝播しにくい
あと、宗教は何千年前からあって、現代まで残っているんだから人間にとって宗教ってのは必要不可欠なんだと思うんだわ
だから、宗教に入るのが幸せになる上で一番手っ取り早いんじゃないかなぁって思う
それか、感情殺すとか、ロボット化すれば多分幸せ
確かロボトミー手術ってのがあったはず
宗教に入るのが嫌なら、強くなれ
もし、宗教に入るのが嫌なら目的を持って進み、遭難や嵐を乗り越えて経験を稼ぎ、何が起きてもなんとかなるって状態を作り、不安そのものに対して対応できるようにすることかなぁって思う
若い人は基本的にこの考え方に近いから不安を感じにくいよね
けど、年を取れば取るほど不安を感じやすくなるわけで、その不安が別の不安を呼んで不幸を感じる人が大量に生産される
だから「不安」に対して対処できるだけ強くなることで不幸になることを避けられるんじゃないかな?
まとめ
幸せと不幸せの定義を「不安」を感じるかどうかだとすると、幸せになりたかったら目的を持って行動をし続けて強くなるか、宗教に入ることで幸せになれる
って感じ
おまけ:宗教モドキが多すぎる問題
というか、現代って宗教モドキが多すぎるんだよなぁ
例えば、アイドルとか有名人のファン
教祖様がグッズ出したら何も考えずに買うわけで、まんま宗教なんだよね
で、宗教モドキって呼び方をしている理由は、解散をしたりして最後まで面倒をみないから
夢見させたなら最後まで夢見させ続けて、信者が遭難したり嵐にあっても不安を感じさせないように輝き続けるべきだと思う
だから、宗教モドキ
その点、キリスト教とか仏教は最後まで面倒を見てくれるという点は良いと思う
教義なんかもちゃんとあって、社会的に幸せな人が増えるしね
けど、僕は「自分の人生は自分に使うべきだ教」の信者だから、神やら教祖のために生きるのではなく自分のために目的を持って生きるべきだとは思う
おまけ:目的を持つって難しくね?
書いてて思ったんだけど、目的を持つって難しい気がする
僕も大学に行く理由を学生時代に見つけられなかったし
普通に生きてたら見つからない気がするんだよね
なんで見つからないかって言うと、才能がある分野で目的を見つけようとするから
けど、ほとんどの人は才能は無いわけでさ、そりゃ見つからない
例えば「身長3mです、バスケットボール選手目指しています」みたいな才能を持った人なんてほぼいないわけで、ほとんどの人が「身長1m50cmです、バスケットボール選手目指しています」って人で、1m50cmの身長と向き合って、どうやったらバスケットボール選手になれるか?を考えて目的であるバスケットボール選手を目指すことができる人ってほぼいないと思うんだよね
すぐ身長3mというすぐ近くに目的地があれば頑張れても、身長1m50cmで遠くの目的地を目指すことはできない
だから、目的を持つという行為自体がそもそも難しいって話
そう考えると、さっさと宗教入ればってなるんだけど、多くの人は宗教モドキに入っちゃうから、不幸な人は増え続けるんだと思った
終わりに
今回の日記書いてて、なんか気持ち悪さを感じたんだよなぁ
ちょこちょこ修正しちゃったから、その辺薄まっちゃったけど読み返してて気持ち悪さ感じたわ
たぶん、抽象的な幸せや不幸せという概念に触れたのと、他人に言及しかけている所で気持ち悪さ感じたのかなぁって思う
あと、僕は毎日楽しくて幸せなわけなんだけどさ
それを証明しようとしているというか、「僕は幸せだー」って言葉に出して言っている感じを読んでて感じたから気持ち悪いって感じたのかもしれない
言わなくていいのと、それを言うために文章構造に影響が出ている感?がある気がする
そもそもなんで「幸せです」的なことを言うのに抵抗があるんだろう?
「不幸せ」ですって言うのにも抵抗がある気がする、言う必要がなくね?って感じがするんだよね
それは、他人に伝えるべき情報じゃないからなのかもしれない
クソどうでも良い情報だしなぁ
それを他人に伝えて何を求めているかがわからない
文脈にもよるんだろうなぁ、幸せですか?って聞かれて答えるモノで、脈絡無しに言うものではない
無意識に幸せですアピールをしている感じが、気持ち悪さの原因だと考えると腑に落ちるなぁ
日記でも、文脈とか求められるかぁ…
僕は僕に対して厳しい気がする
この辺考えるの楽しそうだから後で考えるかなぁ
最近、日記書くと次の日記の内容が決まるからネタに困らなくて良き