日記がまとまらない
日記を書いてて文章がまとまらない事が多いいので、なんでまとまらないのか書き出し。
まとまらない理由
まとまらない一番の理由は、頭が悪いからなんじゃないかって思う。
というのも、日本語然り英語みたいな言語って基本的に他人と意思疎通をするために使われるコミュニケーションツールで、自身が頭で考えている「イメージ」を他人に伝えるためには日本語や英語に「翻訳」をする必要がある。
その「翻訳」は頭を通して口や手を使って言語化する都合、頭が良い方が処理が早く、文章がまとめられるのも当然なんじゃないかって思う。
実際、頭が良い人は説明が上手いけど、頭が悪い人の説明は要領を得ない。僕も「なんか上手く伝わらない」って経験をすることが多く会社員時代の僕の発言力は皆無だった。
なので、頭が悪く頭の中で考えている「イメージ」を日本語へ「翻訳」する処理に時間がかかるため、文章が上手くまとまらないんじゃないかって考えると腑に落ちる。
まとまる日記の存在
頭が悪いからまとまらないとはいえ、中にはまとまる日記も存在する。
例えば、「凄いイライラすることがあった。というのも…」というような実際に体験して時系列で書いていくような日記はすんなりまとまる。言い換えるなら普通の日記はまとまる。
まとまらない日記というのは、「イライラするのが何故か?それは…」といったように何かを証明をしようとする日記(それは日記ではないというのはとりあえず置いておく)
何かを証明しようと思う時、それは客観的に説明をする必要があり、それをしようとするとデータのような客観的な事実を用いる必要があるが、そういった証明をする時に使う日本語は普段使わないものだから上手く「翻訳」ができないんじゃないかな。
(まぁ、実際にデータを用いて証明まではしないんだけど、「人間であればわかるよね?」って感じの共感ポイントは押さえて証明モドキのようなことはしている。)
で、日本語には普段使いをする「口語表現」と普段使いしない「文語表現」といった2種類があるんじゃないかって思う。
だとすると、まとまりやすい日記は日常会話とかで用いられる「口語表現」で書いていて、それは普段使っている日本語で使い慣れた日本語だからすんなりとまとまるが、証明モドキをするような日記では論文で使うような「文語表現」で書き、それは普段使い慣れていない日本語だから上手くまとまらないんじゃないかって考えると腑に落ちる。
言い換えるなら、普段は標準語を使って生活をするけど、日記を描く時は東北弁を使って書くような感覚が近いのかもしれない。(ズーズー弁って言うんだっけ?)
そういう「口語表現」と「文語表現」という違いがあるから、上手くまとまらないって考えると腑に落ちる。
口語表現と文語表現の違い
じゃあ、「口語表現」と「文語表現」は具体的にどう違うかって考えると、一番は慣れているかどうかの違いがあると思う。
例えば、ライトノベルやハリーポッターのような児童向けの本は読みやすいけど、論文を書く時に使うような難しい言葉が出てくるような本は読みづらい。
それは、読みやすい本は慣れ親しんだ「口語表現」で書かれているけど、読みづらい本は日常生活で使わない「文語表現」のような言葉で書かれているからなんだと思う。
また、「口語表現」と「文語表現」では情報量にも大きな差がある。
というのも、口語表現は日常会話でも使用されるため、相手の声色や顔や雰囲気などの視覚的な情報を含め言葉の意味を察することができるが、文語表現ではそういう視覚的な情報を基本的に持たない。
例えば、「うんこ」という言葉を口語表現(会話の中)で使うと、排泄物そのものを指さずに「汚い」「恥ずかしい」「侮辱」などのニュアンス含んだ意味になるけど、文語表現(本など文字)で使うと排泄物そのものを指し、そこには「汚い」「恥ずかしい」「侮辱」などの意味を持たなかったりする。
といった具合に、「口語表現」の情報量が多いい世界で普段生活をして少ない言葉で伝えられるが「文語表現」だと多くの字数を使って表現しないといけないため上手くまとめられないって考えると腑に落ちる。
なので、普段から「文語表現」を使って日常生活を送り、たまに「口語表現」を使うと少ない言葉で多くのことが伝わって困惑するんじゃないかな。
って考えると、僕が「文語表現」を使って日記を上手くまとめられないのは、そういうギャップに驚いている面もあるのかもしれない。
どうすればまとまるか?
じゃあ、どうすれば「文語表現」を用いるような日記を上手くまとめられるか?
これに関しては、口語表現にあるような「視覚的な情報」を足すことで解決するんじゃないかと思う。
1つ例を出すと、「例え」を用いる事なのかなぁって思う。
と言うのも、僕の考える事は抽象的なことが多いい。例えば、努力と才能とは?って考えるとそれらは視覚的には見えないから何かを用いて「例える」必要がある。
バスケで言えば2mという身長が才能で、その才能を持っていない1m50cmの人がプロになるまでの過程(研鑽)が努力って具合に、視覚的な情報を足すことで文語表現的な分かり辛さを補うことができる。
ただ、これは以前にも書いて既に分かっていること。
一番の問題は、日記を書いている僕が「何を書いているかわからなくなる」ことなんだと思う。
というのも、証明モドキをするような日記を書いていると、途中で「何を書いているのかがわからなくなる」感覚があるんだよね。なんというか、文はそれぞれが鎖で繋がっていて、その鎖を追っていけば答えにたどり着くんだけど、証明モドキをしているとその鎖を見失って「これ、文繋がっている?」って感じる事が多いい。(何かを作っている「これは良いものなのか?」って客観的に判断ができなくなる感覚)
そうなると、最初から文の鎖を結び直す作業が発生して、上手く結びつくまでに何度も試行錯誤をする。これが僕が日記をまとめられない一番の理由なんだと思う。
で、それに対する解決策としては括弧(「」)を用いた口語表現を多用することな気がする。
というのも、今さっきも使ったが「これ、文繋がっている」って表現が正にそうで、そういう実際に口に出して文を読み上げる口語表現を使うと、頭の中に自分自身が口に出して喋っている情景(イメージ)が浮かび上がって、イメージがしづらい「文語表現」から慣れ親しんだ「口語表現」に引き戻されて緊張が解けるような感覚があるんだよね。
たぶん、慣れていない文語表現を使うと、難しいと感じ難しく考え過ぎてしまう。そして、緊張し出し、頭が回らなくなるんじゃないかと思う。だから、慣れ親しんだ口語表現を使うことで安心し、緊張が緩和されているんじゃないかと思う。
実際、プログラミングをやってて上手くいかないと次第に焦って余計に上手くいかないことがある。けど、諦めて翌日に作業をするとすんなり解けたりする。そういう現象が証明モドキをする日記でも起きているって考えると納得かな。
という具合に「例え」を用いて視覚的な情報に変換するのと「括弧」を用いて慣れ親しんだ「口語表現」を使うことで緊張がほぐれて日記がまとまりやすくなるんじゃないかって思う。
終わりに
なんかしっくりくる言葉が見つからなかったから「口語表現」と「文語表現」って聞きなれない単語を使ってみたんだけど、口語表現ってどこからどこまでが口語表現なんだろう?
A.主観的な感想は口語表現なのかなぁって思う。
例えば、「男ってこうだよねー」って感じの主観的な感想は「口語表現」で、「男ってこうだよね、なぜなら…」って客観的に説明をし出すのは「文語表現」って感じかな。
日常生活で何かを客観的に証明する必要ってほぼないもんなぁ…
もし、するとしても「誰々(偉い人や有名人)が言ってた」って感じの証明モドキで、そういうのは全て「口語表現」なのかなぁって思う。
ん?だとすると、僕が日記でやっていることって個人の主観的な感想だから「文語表現」ではなく「口語表現」になっちゃわね?
あれ?僕は「文語表現難しー」って悩んでいるのだが「そもそも文語表現使ってない!?」
確かに、何かを証明しようとすると「論文のような「文語表現」を用いて証明すべきだ」って感覚は持っていて「それを使った方がいい」って考えている。けど、実際に使っているのは「口語表現」って感じで、頭では「文語表現」を使っているつもりだけど、実際は「口語表現」で日記を書いているとするとズレているわけで、そりゃ日記が上手くまとまらないのも当然なんじゃね?
んー???(困惑)
とりあえず、論文のような「文語表現」に寄せないで「口語表現」で統一して書くようにしてみようと思う。