日記

X(旧:Twitter)でツイートをしてみて思ったこと

普段はROM専なんだけど、ふと僕の考えていることが合っているかどうかを確認したくてツイートしてみた。

反応貰えんかった

人が集まっているツイートにリプライという形でツイートしてみたから返信来るかなぁって思ったんだけどさ、返信もらえなかったわ。

で、なんで返信を貰えなかったか考えたんだけど、自分ファーストのツイートは返信しづらいんじゃないかな?

自分ファーストのツイートとは?

自分ファーストのツイートってのは、「今日は○○したー」「○○なう」みたいに自己完結したツイート。他には「犯罪は悪」とか「イジメダメゼッタイ」みたいな正しい系のツイート。

正しいとか当たり前のことって反応しづらいんだよね。「お、おう。そうだな…」くらいしか言うことがないし。僕がツイートした内容ってのも僕は正しいって思っている意見をツイートしたから、正しいが故に反応を貰えなかったのかなぁって思う。

とは言え、Twitterにはいいねボタンがあっていいね貰えてない時点で、何か別の要素が関係していたりするんだとは思う。けど、それに関してはフォロワーの数とかしばらくそういうツイートをし続けるみたいな継続性とかが絡んでくるから今回は無視。

で、どうすれば反応が貰えるか?ってのも考えた。それは他人ファーストのツイートをすればいいんだと思う。

他人ファーストのツイートとは?

他人ファーストのツイートってのは、他人が反応しやすいツイートを指す。

例えば、「犯罪は正義」とか「イジメは正しい」みたいな相反する2つを重ねると反応しやすいと思う。なぜならそれは「間違っている」から。Twitter見ててもやらかし系のツイートって伸びているイメージがあるんだよね。もしくは、何か面白い画像とか共感できるような何か。

そういう他人が反応しやすい、反応をしてもらうことを考えてのツイートが他人ファーストのツイートって僕は呼んでいる。まぁ、言い換えるならお金や承認欲求とか何かを得ようとしたり、他人に何かを求める行為が他人ファーストなのかなぁって思う。

TwitterはSNS

で、それに気づいてから僕はROM専に戻っちゃったんだけど、そもそもTwitterはSNSであって僕の意見が合っているかどうかを確認する所じゃないんだよね。同じ趣味の人を探したり、他人とコミュニケーションを取る場所であって、何か意見を欲しいのであればそういう掲示板とかにいけばいいんだと思った。

yahooニュースとかでもTwitterのツイートが記事になっていたりするのもあって、そういう議論的なことをする場所だと勘違いをしたことで、今回ツイートした感じ。

そして、lineとかでもそうなんだけどさ、コミュニケーションを取るって時間取られるんだよね。前に幼馴染’sと食事をすることになって日時の摺合せをしてたんだけど2時間くらいかかってすげぇ後悔した。だから、反応を貰えたとしてもコミュニケーションを取れるほど時間がないからROM専に戻った。

SNSツールを使うと認識が改まる

とは言え、SNS系のツールを使うと認識が改まる感覚があるんだよね。
過去には、漫画投稿サイト、Twitter、Noteってのをやってみてほぼ反応を貰えなかったんだけど、それを目の当たりにすると意識に変化が起きるんだわ。

それは、他人の目を通して自分の言動や作品を見るって視点が日常から欠けていたからなんだと思う。実際、今回みたいに正しいことって反応しづらいよねーって気づきもツイートして気づいたわけだし。

最近だと、Noteに記事をアップしたらさ他の記事と見比べて自分の記事は酷いなって気づいたり、元同僚’sと食事をしてた時に日記に書いた内容を話したら変な空気になった。そういう他人を通して自分を見つめ直すと問題点が見つかるんだよね。

だから、他人の目があるSNSとかを使うと意識に変化が起きるのかなぁって思う。それは、僕の中で膨れ上がった自信を他人の目を通して正しい位置に戻すようなもので、例えるなら沸騰してこぼれるのを防ぐ差し水のような役割が他人の目にはあるのかなぁって思う。

何か煮詰まったら他人を利用するといいのかもね。
そして、今の僕は煮詰まってないから他人を利用する必要がないって話。

終わりに

今回の日記は肩の力を抜いて書けた感じがするわ。
肩の力を抜こうとはずっと思ってたんだけど、なんか肩ひじ張ってしまうんだよね。

で、なんで肩の力が抜けたかって言うと、「ジャーナル」作ったからだと思う。ジャーナルは日記で書いていたことをまとめる役割で作っていて、例えば、「努力とは」みたいな抽象概念を書こうするとさ、日記が凄いかたっ苦しくなっちゃうんだよね。そういう硬い日記は「ジャーナル」で緩い日記は「日記」で書くって棲み分けができたことで、肩の力が抜けたんだと思う。

まぁ、他にも日記書いている時に都度「努力とは」を説明するのが面倒くさいし、他人に説明をする時に僕が説明しやすいようにするって側面がある。ジャーナルはそういう僕の中で「これはこうだよね」って確度が高いモノを書いて、公式化して引用するために作った感じ。

だから、日記で清書みたいなことをしなくて良くなって、清書はジャーナルの方でするっていう風にしたから肩の力がぬけるようになった。

こういう風に、視覚的に棲み分けないと肩の力を抜けないってのも面白い気づきだった。

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