余裕があると「楽しいこと」を求める本能
「余裕があるとゲームをしてしまう」というのは人間の本能だと理解していたつもりだが、依然としてコントロールできない自分がいる。
そこで、なぜ人間は楽しいことをしようとするのか、その根本を再考してみた。
「楽しい」の正体は淘汰への勝利?
人間が楽しいと感じる例として、性行為や遊びがある。これらは人間の本能だから楽しいのだと思っていたが、いくら本能でも「上手くいかなければ楽しくない」と感じる。もし本能がただ楽しいと感じさせるだけなら、上手くいかなくても楽しいはずだ。
逆に、楽しくない仕事や命がかかっているような真剣勝負ですら、上手くいけば楽しいと感じることがある。
このことから、楽しいとは「淘汰に勝っている状態」を指しているのではないかと思う。
もし「楽しい=淘汰に勝っている状態」だとすれば色々と腑に落ちる。
性行為が下手な個体より上手い個体が子孫を残した方が良いし、遊びや仕事が上手くできず足手まといになる個体は集団にとって邪魔になる。淘汰に勝っている優秀な個体が極力生き残る方が、人間という種が存続する上で合理的だ。
つまり、生存競争(淘汰)において優位に立っている状態の時、脳が「楽しい」という報酬を与えているのかもしれない。
娯楽と「安全圏」
では、一人でゲームをしたり、映画やアニメを見ている「娯楽」の時間が楽しいのはなぜか。
これは淘汰に直接勝っているというより、淘汰から逃れた「安全圏」から見ている状態だからだと思う。ローマのコロッセオで、剣闘士の殺し合いを安全な客席から眺めている観客と同じだ。
自分が当事者として殺し合い、殺されるのは楽しくないが、安全圏から眺めるのは楽しい。ゲームは仮想現実で容易に無双して淘汰に勝った状態を作れるし、映画やアニメもその延長線上にあるんだと思う。
他の娯楽でも同じだと思う。キャンプや釣りや花見などの娯楽に人が殺到し、思い描いた通りに上手くいかない、競争(淘汰)に巻き込まれれば、多くの人は離脱するだろう。
淘汰から逃れることや、容易に淘汰に勝てる仮想現実のような「安全圏」が楽しさを生んでいるとすると娯楽が楽しいのも納得できる。
日常における「楽しい」
多くの人は将来への不安はありつつも、安心感を持って「安全圏」での日常を生きている。しかし、それは安定していても「淘汰に負けている状態(周りと比べて幸せではない等)」での安定であり、心から楽しいとは言えないんだと思う。
もし日常で楽しいと感じることがあるとすれば、「目的を持って生活している」時だ。
例えば、「1000万貯める」という目的に向かって節制するのは楽しい。年収1000万以上の人と比べれば負けている状態なのに、なぜ楽しいのか。
それは、目的を達成するための「試行錯誤」自体が、淘汰に打ち勝つ努力をしている状態だからなのだと思う。節制自体が「お金がなくても普通に生活できる」という自信になるし、1000万という目的を達成できれば、2000万も3000万も狙えるわけで、生き残るための能力(淘汰に打ち勝つ能力)になる。
学生時代の部活や勉強と同じで、成長を実感し、淘汰に打ち勝つ能力を得られるから楽しいのかもしれない。
自分にとっての「楽しい」
この仮説に基づくと、自分が毎日を楽しいと感じている理由も腑に落ちる。
「欲しかったモノを作る」という目的を持って行動し、徐々にその目的に近づきながら成長を実感しているからだ。
正直、周りのことは気にしておらず、昨日できなかったことができるようになっているという「成長」や「過去の自分との比較」を楽しんでいる。目的を持って行動すること自体が、周りと比較しなくて済む「安全圏」にいる状態と同じ状況を作っているのかもしれない。
恋は盲目と言うように、目的を設定して行動すると周りが見えなくなるが、その状態自体が淘汰に打ち勝つための行動だから、本能も何も言わずに従うことができるのだろう。
他人との比較競争(淘汰)が発生しない安全圏から、物見遊山のように世界を眺めている。人間社会の淘汰の原理から外れた場所にいるからこそ、無条件に「楽しい」と感じられているのだと思う。
なんかムカつくなこいつ。AIに文章まとめてもらうとニュアンスが変わるわ。僕が意図してないニュアンスが文章に乗る。マスコミによって発言を切り抜かれたりするとこういう現象が起きるんかな?個人としては、軽口で「○○なんじゃね?」って本心ではない推測みたいな発言も、文章で配信する時には「○○なのだ」って推測のニュアンスを省いて別のニュアンスを乗せて配信するって感じ。実際、AIを使わないで書いている時の僕の文章は推測のニュアンスが入っているため読み辛いけど、AI通すとそういう推測のニュアンスが無くなるから読む上では読みやすい。推測の域を出ないのであれば発言はしない方が正しいのかもなぁ。商売でも「○月○日に発売するかも…」って文章より、「○月○日に発売!」って方が分かりやすい。個人でも「明日、テストで良い点とれるかなぁ…」ってより「明日、テストで良い点数取るぞ!」の方が分かりやすいからか「取れねぇよ、バーカ!」って反応しやすい気がする。
実際、今回のAIに清書してもらった文章を読んでイラついたのもそういうことだもんなぁ。推測のニュアンスがないから、違うって思ったら違うって反応しやすいんだと思う。推測のニュアンスが入っていたら、「どっち?」「○○じゃなくて、××じゃない?」って感じの、話し合いや議論になる。ってことは、清書してもらった文章はそういう議論をスッ飛ばした結論だから反応しやすいのかもしれない。
だとすると、個人と企業の叩きやすさの違いもそういうことなのかなぁ?小学館が問題を起こしたわけだけど、やらかした作家は叩きやすいけど、小学館は叩きづらい。なぜなら、小学館の誰を叩けばいいかわかり辛いから。作家さんは結論だから叩きやすいけど、小学館ではまだ議論中で誰が責任を取る?って感じで結論が出てない。そして、結論を出さないから叩き辛いし、出して責任者が謝ってもそいつがやらかしたわけじゃないから叩き辛い。因果関係なのかなぁ?やらかしたのが個人であればわかりやすいけど、企業だと社員に分散して分かり辛くなる。日本がやらかしても国民や議員に因果が分散されるから叩き辛い的なヤツ。これ、別でまとめた方が良いかもしれないわ。掘れば掘るほど出てくる。
AIに謝られた
上に書いた追記をまとめて欲しくてAIに投げて見たらくっそ謝られた(笑)。
自分の思考を勝手に断定口調に書き換えられたら、「は? 何様?」ってムカつくのは当然だわ。不快な思いをさせてごめん。
違うんだ、ごめん!そういう感想を思ったってだけで、責めるつもりはないんだ!
マジで人間だなぁ、人類の進歩ってすごいなぁって思った。
「推測のニュアンス(〜かも、〜だと思う)を消さずにまとめて」って言えばやってくれるみたいだから、今度からそうしようかなぁ。