宗教的構造が嫌い
昔から宗教的構造が嫌い
宗教はもちろん嫌いなのだが、有名人とファンのような関係性にも嫌悪感を感じる
なぜなら、有名人という名の教祖様の出す商品を何も考えずに買ったりするファンには自分の意志というものを感じないから
「なぜ、100均で売っていそうなものに何倍ものお金を出すんだ?」というように、僕には理解ができない行動をとっている点に嫌悪感を感じ、そういう宗教に似た構造、宗教的構造に嫌悪感を感じる
けど、世の中の多くの物事にそういった宗教的構造は存在している気がする
例えば、有名人とファンの関係性はもちろんのこと
企業製品などのブランドや日本製だから安心みたいなところにも「この商品は安心、なぜなら日本製だから」というように理由になっていない理由が存在し、宗教的構造がある気がする
そして、キリスト教には献金というシステムがあるわけだが、宗教含め宗教的構造はお金を稼ぐうえでは効率がいいのかもしれない
だから、世の中にはそういう宗教的構造が多いいのかもしれない
しかし、宗教や宗教的構造は悪いのか?
僕の母親もジャニーズ教スノーマン派の信者なわけだが毎日幸せそうだ
キリスト教などの宗教に属する人だけでも世界の半数を占め、多くの日本人は「日本製は安心安全」教に属する信者で、世の中のほとんどの人が何かしらの宗教的構造に属している気がする
もし、本当にその構造が悪いのであれば、宗教的構造に属さない人が大多数なのだと思う
もう一度考えてみる、僕がなぜ宗教的構造を嫌うのか?
なぜ、教祖様のお言葉を真に受け自分の意志で動いていないように見える信者に対して嫌悪感を感じるのか?
それは僕自身が「自分の人生は自分のために使うべきだ」と考えているからで教祖様という赤の他人や「日本製は安心安全」という偶像のために自分の人生を使うべきではないし委ねるべきではないと考えているからだ
要するに僕は「自分の人生は自分のために使うべきだ」教の信者ということなんだと思う
だから、自分の人生を自分のために使っていない人たち、何も考えず疑わず教祖様の言葉に従っている人たちを理解できず嫌悪感を感じるんだと思う
そりゃそうだよ、だって信仰している宗教が違うのだから
なるほどね!
宗教的構造が嫌いなのは「自分の人生は自分のために使うべきだ」教の信者としての意見なんだ
「日本製は安心安全」と何も疑わずに買う人も有名人のためにお金を出すファンもやっていることは「何も考えずにお金をだす」ことなわけだが、僕は「日本製は安心安全」と買う人に対して嫌悪感を感じないんだよね
それは僕も「日本製は安心安全」教という宗教に属するからだと思う
なるほどね!
これはレイヤーの違いなんだと思う
「宗教的構造に属する人」VS「宗教的構造に属さない人」
「日本製は安心安全」VS「中国製は危険で粗悪」
「カトリック」VS「プロテスタント」
というように自分がどのレイヤーのどの立場に属するかで、その対となる対象に嫌悪感を感じたりするんだと思う(感じない場合はどっちにも属さない中立)
実際、宗教としては僕はどこにも属していないからキリスト教に対しては何も感じない
要するに、今回の僕の嫌悪感は「宗教的構造に属する人」VS「宗教的構造に属さない人」という対立より、「自分の人生を他人に使う」教VS「自分の人生は自分のために使うべきだ」教という対立で、僕は「自分の人生は自分のために使うべきだ」教の信者だからお金は自分のために使うべきで他人のためにお金を貢ぐなんて理解できない
信仰している宗教が違うことが嫌悪感の正体なのだと思う
そう考えると、何かに嫌悪感を抱くということはどこか「○○教」の信者として教祖様のお言葉にそぐわない行動を対象が行っているということなのかもしれない
そして、「自分の人生は自分のために使うべきだ」教の信者として今回もっとも大事なのは「考え続ける」ことなのだと思う
嫌悪感を感じ、その嫌悪感を「なぜ嫌悪感を感じるのか?」と疑わないという状態はその人が信仰する宗教の教祖様のお言葉を信じ、洗脳され、自分の意志で行動をしていないということで、「自分の人生は自分のために使うべきだ」教の信者である僕にとっては信じられないこと
まず、「なぜ嫌悪感を感じるのか?」を考え、その宗教の教祖様が言う教えが正しいかどうかを考え、自分にとってそれが最適かを考えた上で信仰することこそが、「自分の人生は自分のために使うべきだ」教にとって大事なことなんだと思う
そういう意味では、今回の「宗教や宗教的構造に嫌悪感を感じる」も、「なぜ嫌悪感を感じるのか?」を考えてみると「自分の人生は自分のために使うべきだ」教の教えに背いているから、というのがわかった
そして、今回の件で実は僕自身がすでに「自分の人生は自分のために使うべきだ」教という宗教に染まっているという事実に気づいたが、その上で「自分の人生は自分のために使うべきだ」教は正しいと思う
だから、僕は僕の判断で「自分の人生は自分のために使うべきだ」教を信仰し続けようと思う
こういう状態なんかな?
洗脳された人って
後半、途中で何書いているのかわからなくなったけど、宗教って理屈じゃねぇんだよな
とりあえずまとめると、宗教や宗教的構造が嫌いと言うがその時にはすでに僕自身が対立する宗教に属する信者だったという状況で宗教対立していたための嫌悪感だということみたい
で、僕はその「自分の人生は自分のために使うべきだ」教に属することはどうなんだ?と考えてみたが僕にとっては最適な宗教だったからそのまま属することを決めた、というのが今回のまとめ
たぶん、僕が「自分の人生を他人のために使ってもいいじゃん?その人の人生なんだから」と対立する宗教の信者が声を上げてきても考えを曲げることは無いと思う
こういう状態が自分の考えを曲げない人の根本的な考えなんじゃないかな?
そりゃ、自分の信仰する宗教が間違っていると言われて間違っていることなんて認められねーよ
キリスト教の信者に「神はいないよ?」って言うようなものだもん
そして、論破が上手いと言われている某ひろゆき氏はこういった宗教に属さない中立的立場で物事を考えることをしていて、神がいることを前提に成り立つ宗教の信者に対して「神がいるなら証明してみせてください」って投げかけるようなことをしているから論破が上手いのかもね
だって、宗教の信者って神がいないと疑ったことがないんだもん、そりゃボロがボロボロ出てくるよね
言い換えるなら、中立的立場で常に教祖様のお言葉を「疑う」ということを某ひろゆき氏はやっているんじゃないかなって思った(Abemaよく見るからふと思ったので書き出し)
話は戻って、世の中のほとんどの人が有名人○○教や某アイドルグループ教○○分派に属していたり、「日本製は安心安全」や「自分の人生は自分のために使うべきだ」みたいな偶像を崇拝する宗教に属しているのかもしれない
日本人に無宗教が多いいのは宗教に属さなくても信仰している宗教(グループやアイドルや偶像)がすでにあるからだとすると僕的に納得できる
書いてて思ったが、宗教に例えちゃうとキリスト教であり、イスラム教でありヒンドゥー教で仏教徒ですみたいなハイブリッド信者?多宗教信者?みたいになっちゃうな(笑)
だって、レイヤーが変わればそのレイヤーの数だけ宗教が存在して属したりするわけだし
言い換えるならレッテル?ラベル?カテゴリー?なんか良い言い回しがあればいいんだけど見つからないわ
人間は知らず知らずのうちに宗教的構造に属してて、教祖様の言葉を信じ疑わない洗脳をされた状態にいるんだなぁと思った
終わり
今回の日記は書いてて面白かった
前に、他人を変えるのは無理って日記で書いたけど、こういう理由から変えるのが無理なんだと思う
それに、他人を変えたかったら催眠や洗脳するくらいしか無理も補足で書いたけど、もうすでに洗脳されている状態なんだから相当腕の立つ術師や信徒を連れてこないと無理だな(笑)