日記

理由がないと人は努力をすることができない

ぬわーっ!日記が全然まとまらん!
努力って才能と違って使いまわしが効くと昔から漠然と考えてて、それについて言語化できそうだったから書き出した日記がまじでまとまらねぇ

なんでまとまらないのかって考えると、そもそも前提条件が間違っているっぽい

まず、努力とは才能があって成り立つもので
例えば、サッカーの才能があるからサッカーの努力ができるし、絵を書く才能があるから絵を書く努力ができる

で、僕は才能が無くても努力自体はできるって考えてる
それは過去の経験から来てて、勉強の才能が無くても行きたい高校のために努力はできたし、パソコンの才能が無くてもパソコンを仕事にする努力はできた、みたいなね

そして、才能がないけど努力ができたんだから他の才能がないことに対してもこの努力は使いまわせるんじゃね?と考え「才能は使いまわしが効かないけど、努力は使いまわしが効く」という考えに至ったわけだけど

そもそも、努力をするためには前提として「理由」が必要だった

というのも、才能がある人が努力をできるのは才能があって「好きだから」という「理由」があるから努力できるわけで、僕が勉強の才能がなくても行きたい高校に行くために努力ができたのも「行きたい」という「理由」があったからだし、パソコンの才能が無くてもパソコンを使って仕事をする努力ができたのも「ブログを作るため」という「理由」があった
そんな感じで、努力をするためには前提として才能ではなく「理由」が必要ということみたい

だから、努力は「理由」があって成り立つもので、「理由」があれば努力は使い回しが効くけど、「理由」が無いものに対してはそもそも行動する「理由」がないんだから努力もできないってのが正しいみたい

なるほどね!

書き出して見ると「理由」が無ければ行動ができない、努力ができないのも当然だよなーってわかるんだけど
「行動するのが当たり前」になってて「なんで行動できるのか?」ってところに意識が向かなかった
「初心を忘れる」ってこういうことを指すんかな?
慣れって怖いわー

で、今回の日記、全然まとまらなくて数えたら2万字超えてる(笑)
400字詰め原稿用紙だと50枚びっしりと埋まるね

学生時代の読書感想文で原稿1枚埋めることすら困難だった頃から考えると、だいぶ文章を書けるようになった?んだなぁーって感じた
これだけの文字量を書くことができるようになったんだし、その努力は当然他にも使えるんだと思う
ただし「理由」があればね

努力がなぜ使いまわせるかについての補足
少し前まで努力とは「問題を解決するためにはどうすればよいか?を考えること」だと考えていた
どうやったらサッカーが上手くなるか?どうやったら絵が上手くなるか?どうやったら高校に合格できるか?みたいな目的を追い、何かしらかの問題が発生し壁にぶち当たった時、それを解決し乗り越えることが努力だと考えてた
だから、その問題を解決し乗り越える能力や経験は他にも使いまわせるんじゃね?ってことで「努力は使い回しが効く」って考えていた

でも最近は、「どうすれば楽しめるか?」を考えるかが努力なんじゃないか?って思い始めた
というのも、努力をするときって結構な量のストレスが存在するんだよね

で、さっきも書いたけど、努力って「理由」という目的があって成り立ってて
その目的を達成するためには「問題を解決する方法を考える」という努力ももちろん大事なんだけど、「継続」をすることがなにより大事でさ
だって、どんなに強い「理由」があって行動できるとしても時間が経つとその「理由」はストレスで摩耗していって、消滅した瞬間行動することを辞めちゃうんだもん

だから、ストレスを感じないこと、楽しむことが何より重要でさ
「どうすれば楽しめるのか?」という「継続」方法を考えるのが努力だとすると、何に対しても使い回しが効くと思うし、「楽しむことが努力だよ」って説明だと「努力が使いまわせる」って僕の理論も説明しやすい気がするんだよね

もちろん、努力という行為は「問題を解決するためにはどうすればよいか?を考えること」ではあるんだけど、ストレスで「理由」が摩耗するより早く問題を解決できる人ってほとんどいなくて、摩耗する方が圧倒的に早いと思う(じゃないと世の中成功者と呼ばれる人だらけだし)

だから、まずはどうすれば続けられるか?どうすれば楽しめるか?という「継続」方法を探し出して、その後にどうすればその問題を解決できるか?という今までの努力をするってのが努力の流れなんじゃないかなって思った
努力の初級編がまずは楽しむこと、中級編がどうすれば解決できるかを考えることって表現の方がしっくりくるかも

とは言え、「どうすれば楽しめるのか?」って初級編から入るのは才能が無い人の場合の話だけどね
才能がある人はそもそも「好き」で「楽しい」から目的のために行動しているわけで、初級編を飛ばして中級編から入っているわけだし

あくまで才能が無い人はまずは楽しむことが大事って話なんだと思う
実際、僕は嫌いなことばかりやっているわけだけど、気づくと「どうすれば楽しめるか?どうすればストレスを感じなくて済むか?」を考えてたりしてる実体験もあって、この理論はあっているんじゃないかなと思う

上手くまとまったかな?
才能と努力の話は抽象的過ぎて言葉にするのがマジでしんどいわ
だから、まとまらず苦労したんかもな

まとめてて思ったが、仕事とかで自分に向いているモノを探す人の話をネット上で目にすることがあるんだけど、そういう人たちは才能がある「好き」「楽しい」と感じるモノを探していて、努力の初級編「どうすれば楽しめるか?どうすればストレスを感じなくて済むか?」を満たしている、中級編から入れるモノを探しているとも言えるのかなーって思った

そういう向いているモノが見つかる人には見つかるんだろうけど、多くの人には向いているモノはないと思うんだよね
だって、ほとんどの人には才能がないんだもん
僕も、高校生の頃に好きなこともやりたいことも無くて「生きてる意味なくね?」って思って自殺未遂したけど、今思い返すと好きなこともやりたいことがないのは当然なんだよなー
だって、才能がないんだもん

だから、そういう人たちは努力をして「どうすれば楽しめるか?」という努力の初級編を乗り越えないといけないんだと思った
そして、もし初級編を乗り越えることができたなら他のモノにも使い回しが効くんだと思う
やることは大体同じで、まずは「どうすれば楽しめるか?」を考えることだし
ただし「理由」があればの話だけど…

そんで、才能が使い回しが効かないのは、初級編を吹っ飛ばせるような才能を持ったモノを複数持っている人がほとんどいないからなんだと思う
1つの分野で結果出して、全く別の分野で同じ結果出す人とか聞いたことないし…
まぁ、努力する「理由」がお金であることが多いいから、同じ結果を出せたとしてもそれをする「理由」が既に無くなっちゃってるんかもしれんが

まとめると、努力をするには「理由」が必要で、その「理由」という名の目的を達成するためには「継続」が必要で、「継続」するための楽しむ方法を探すことが何よりも重要
ってのがこの日記で得たことかな

んー何度もリライトしても上手くまとまらんわ、いつかちゃんとまとめられるようになりたい

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