日記を読み返して感じたこと
日記を書き、ふと過去の日記を読み返した時に色々と感じたので書き出し
体感時間のずれ
日記を読み返してて驚いたのが、体感時間のずれ
数年前に書いたと思っていた日記が半年前で、しかも同じ年だったりした時には目を疑った
なぜ現実の時間と体感時間のずれ起きたかを考えると「日記」が原因な気がする
というのも、僕は日記で毎日「日々の気づき」を言語化するために頭を使うのだが
それは僕にとっては新しい情報で、脳が処理するのに時間がかかるのだと思う
そして、脳が日常的に処理する情報とは別にその新しい情報を処理することで体感時間のずれを生んでいる気がする
例えるなら、
常時「体感時間」を処理するソフトが動いてるところに並行して「日々の気づき」という見慣れない情報を処理するソフトが動き、そのせいで「体感時間」を処理するソフトのリソースが取られて処理が遅くなっているというのかな
だから、新しい情報を処理するために現実の時間と体感時間がずれたと考えると腑に落ちるかな
新しい情報を処理する=充実
ふと、新しい情報を処理することが充実感を形成しているんじゃないか?と思った
というのも、新しい情報を処理するとその分脳が疲労して、その疲労感を充実していると感じるのではないか?という話で
勉強した日としてない日だと、勉強している日の方が充実しているし
友達と遊ぶ日と遊ばない日では、遊んでいる方が充実している
働いているといないでは、働いている方が充実している
共通点を考えると、脳が新しい情報を処理しているかしていないかの違いがある気がする
だから、日々を充実させるためには新しい情報を処理するのは不可欠で、常に新しい情報を取得し続ければ結果的に日々充実するのだと思う
言い換えるなら、日々がマンネリ化するのを新しい情報に触れることで防ぐ、と言えるのかもしれない
単純作業が敬遠されるのもこういうことなのかもしれないわ
現代人と昔の人が感じる時間の差
書いてて思った
現代人が感じる1年より昔の人たちはもっと短い1年を過ごしていたんじゃないか?
というのも、今より昔の人達って現代人以上に同じ毎日を送ってたと思うんだよね
新しい情報を得ずに、死ぬまで同じことをやる
だから、現代人以上に処理する情報が少なく体感時間の処理のみを行うから
(インターネットを使えば新しい情報を得られる)現代人より短い時間を過ごしていたって理屈も通る気がする
極端な話、気づいたら生まれてて、気づいたら子供から大人になってて、気づいたら年を取って気づいたら死に際といったような感覚だったんじゃないかなと思う
まぁ、流石に言い過ぎかもしれないが、現代人が感じる1年より昔の人たちが過ごした1年は短いということは間違っていないように思う
そして、人類が誕生したのは20万年前で、今日という今日までの20万年間は現代人が考えているより実は短い時間だったんじゃないかって思う
歴史が好きな僕としてはとても興味深い視点だった
感想
今回の日記は超楽しかった
「現代」の視点から過去の人の体感時間を考察することになるとは思わなくて予想外だった
こういう視点をぱっと思いつけばいいんだけど、中々思いつかないんだよなぁ
今はとりあえず書き進めて気づくスタイルで、書き進めて新しい視点が見つからなかったらその日記はお蔵入りになっちゃうので勿体なく感じる
その辺も視点を変えて、清書に値する日記にすることができたらもっと毎日が楽しくなると思うから見つけたい