余計な一言が多い
テキストでもオンラインミーティングでもそうなんだけど、
僕は余計な一言が多いい気がする
そして、その一言は相手の行動を変えようとしての一言な気がしてて
人を変えるのは無理だと理解しているから「余計な一言だった」と後悔している気がする
で、余計な一言を言う時の僕がなんとなくDQNみたいだなって感じた
あの、子供にキラキラネームやらタトゥー入れたりするDQNと呼ばれる人たち
他者がどう感じるかを考えず、自分の感じたままに行動する人
僕も、余計な一言が出る瞬間はDQN化して
面倒だから仕事を増やすな!と他人の状況を考えず
自分を優先させた結果余計な一言が出ているんだと思う
そして、後悔しているんだと思う
で、本題
別にDQNって表現じゃなくて、クソ野郎とか自己中って表現でもいいのに
なぜかDQNって言葉が真っ先に思いついて
DQNで例える僕の思考が不思議なんだよね
なので、何故わざわざDQNという表現を使ったのか考えてみた
DQN=本能的に行動する人
まず、DQNって理性より本能を優先させている人だと思うんだよね
キラキラネームやタトゥーも日本という国では嫌悪感を感じさせるものだけど、
俺がしたいんだからそうするんだ!と本能を優先させている人をDQNと言うんだと思う
でも、クソ野郎とか自己中みたいな表現も同じ意味を持つ
それなのになぜ敢えてDQNという表現を使うのか?
DQNは視認できる
敢えて、DQNという表現を使うのは
クソ野郎とか自己中みたいな同じく本能を優先させる人と違って
割とその辺にいて視認できるからなんだと思う
クソ野郎とか自己中はぱっと見わからないけど
DQNはぱっと見分かりやすい
本能的に動く人間を指す表現として解像度が高い
だから、本能を優先させた「余計な一言」をDQNって表現したんだと思う
DQNという言葉を使った理由
そして、DQNという言葉を使った理由は
「いい加減に直せ!」ってことを自分自身に伝えるためなんだと思う
というのも「余計な一言」を言う癖って前から問題視してたんだよね
都度直そうと思うけど直せなくて今日までズルズルと引きずってきた
クソ野郎とか自己中って表現もその時に既に使っていたんだけど
それでも動かない、じゃあDQNという言葉を使って如何に問題なのかを僕に伝えよう
というプロセスがあってDQNという言葉が出てきたんだと思う
で、これに気づいた時驚いたんだよね
だって、全く意識してない意識外でこれを考えてDQNという言葉を使ったんだもん
こういうふと出てくる何気ない言葉も、実は理由があるって考えると
「なんとなく」という言葉は理由を考えることを放棄しているということで
今も中々使えないけどより一層使いづらい表現だなって思った

DQNを攻撃したいわけではない
一応補足なんだけど、別にDQNという人種を攻撃したいわけじゃない
というのも、子供にキラキラネームをつけたりタトゥーを入れたりするのも
日本だと嫌悪感を感じるような行動だけど、海外であれば問題ないんだよね
日本視点で見ると、悪いことだけど
海外視点で見れば悪いことではない
というのを理解しているのと
攻撃したところで人を変えることはできないって分かっている
だから、攻撃が目的じゃなくて
あくまでも僕自身の行動を矯正するためにDQNという言葉を用いているんだと思う
って自問自答して腑に落ちるから
そうなんだと思う
というかDQNって恒常的な状態なんか?
キラキラネームもタトゥーも消すには時間がかかるし
恒常的なのかもしれないなぁ…
感想
普通に日記として書こうと思ったんだけど
中々良い気づきに出会えたので、
何度か清書が必要な日記になってしまった(ちょっと時間がかかった)
普段日記を書くときって意識している中での出来事の言語化だったけど
今回の日記は意識外で起きた出来事で
こういう表現1つ取っても日記にできるってなると
日記のネタ探しがかなり楽になるから僕にとってはとてもありがたい気づきだった
しかし、今回の気づきは危ない気がするわ
ただでさえインドア派で外に出ないのに
この気づきは脳内に引きこもるきっかけになりそうで
それはそれでどうなんだろうかと考えて一人で笑った
インドアの上位互換、マインドア…なんつって