行動する間になんやかんやで解決
疲労が溜まるとそれをなんとかしようと色々と考えるんだけど、結果的に何もせずに解決することが多いのが気になったので書き出し。
行動する前に問題が解決してしまう現象
疲労を取るために、旅館のような非日常空間を利用することを考え、宿を探し始めたりすることがあった。けど、実行に移す前に自問自答で自己解決してしまい、旅館に行かずに終わる。原因に対して対策を練るんだけど、結果的にその対策を実行することなく終わるみたいなことが多い。
自己解決のメカニズムと外部環境の役割
なんで実行することなく終わるのかと言うと、自問自答で解決するから。旅館みたいな外部の力を使って解決するんじゃなくて、内部の自分の力だけで自己解決する。だから、実行することなく終わってしまう。
であれば最初からそうすればいいじゃんと思うんだけど、危機感や不安を感じ、旅館のような対策を練ることで強く意識をするからこそ自己解決できるという面がある。強く意識をし、自己解決のためのリソースが集まるから解決するのだと思う。
不安や危機感は行動の「燃料」
そう考えると、不安や危機感というのは「燃料」なんだと思う。人間は行動するために理由が必要で、不安や危機感は自分を動かすための燃料になる。だとすると、外部の解決策は必要ないようにも思える。結局は自分の力で自己解決してしまうし、不安や危機感は「旅館に行こうかな」と対策を練る前から十分に感じている。燃料としては十分にあるからだ。
けれど実際には、外部の解決策を探している時、それを通して根本の原因がより鮮明になってくる感覚がある。たとえば、「旅館に行けば解決するんじゃないか?でも、どこか腑に落ちない」「それはなぜ?」と自分に問いかける。旅館のような外部の解決策を壁に見立ててボールを打ち、跳ね返ってきたボールを打つことで、自分の中にある違和感、不安や危機感の根本にある問題を探ることができる。自問自答をする上ではある程度のラリーが必要で、その壁打ち相手として旅館などの外部の解決方法を使っているのだとすれば、これは必要なプロセスなんだと思う。
疲労が不安と危機感を生む理由
疲労が溜まると不安や危機感を感じるのだけど、それはなんでなんだろうか?
これは、生存本能から来ているんだと思う。ベストパフォーマンスを出せないことで「役立たず」として集団から追い出されないようにするためだったり、突発的な危険に対処できなくなるからなんだと思う。疲れていない状態が人間としては正常。生存本能的に疲労が「良くない状態」だからこそ、そう感じるのだとすると納得がいく。
なぜ問題が大きくなる前に対処できないのか?
疲労は毎日少しずつ溜まるんだけど、ある程度溜まり、日常生活に影響が出てからじゃないと対処できないのが気になった。例えば、タバコやお酒も体に悪いとわかっているのに摂取し続けて、病気になって初めて「なんとかしなきゃ」となるように、ある程度ダメージが溜まって日常生活に影響がでないと認識ができない。
なんでかと考えると、まず、動く理由がないというのがある。現時点では困ってないから動けない。次に、問題の認識ができない。それが問題であるとわかるのは、ある程度ダメージが溜まった後。疲労が溜まって動けなくなりたくて頑張っているわけじゃないし、病気になりたくてお酒やタバコを摂取するわけではない。その行動と結果の結びつきが弱くて、それが問題であると認識できないのだと思う。
実際、僕の抱える疲労も、溜まり過ぎて首回りがガチガチに凝り、寝辛く睡眠が浅くなってから初めて困っている。日々を後悔しないよう全力で過ごしていたらそうなったという話で、想定していなかった。そんな感じで、ある程度溜まって日常生活に支障が出てくれないと問題として認識できないのだと思う。これは、知らないとかそういうレベルの「認識できない」という問題なんだろう。
損得勘定による行動の先送り
ただ、「休んだ方が良い」みたいに、限界まで溜まる前に問題を認識できている面も確かにある。お酒やタバコも「よした方がいい」というのはわかっているのに摂取を辞めないわけで、それは損得勘定が働いているからだと思う。
休むより作業をした方が良い、摂取しないより摂取した方が良い。そういう損得勘定の天秤があって、ある時その傾きが逆転し、初めて「問題」になる。それまでは問題ではない。問題じゃないのだから動く理由がなく、行動できないのも当然なのだろう。
終わりに
とりあえず、粗方書き出せたかな。行動する前に自己解決するのも、旅館など外部の解決策を壁打ちの相手にして、返ってきたボールを打つ感覚を通して自分自身の中にある問題を確認するためと考えると納得がいく。旅館に行くことで解決しようとしているんじゃなくて、旅館に行こうとする僕自身の反応を通して根本の問題を探るのが目的。だから、実際に行動する前に解決するという現象が起きているとすると納得。
書いていて思ったんだけど、「後悔」というのは、言語がないと成立しない概念なのかなと思った。後先を考えないで行動すると後悔みたいなことが起きるんだけど、言語がないとその後悔すらできないって話。
例えば、毒キノコを食って後悔、機械で指を飛ばして後悔、みたいなことって、それが危ないと「知っている」から起きるわけで、言語が無い他の生き物がその状況になったとしても「なんか苦しい」「なんか指が無くなった」って感じで後悔はできない気がする。言語で「これは危ない」と認識をした上でそれをするから後悔する。だから、後悔というのは言語を持っている人間にしかできないんじゃないかと思った。
それに、言語がないと思考を「過去」に繋ぎ止めておけない面があるんじゃないかと思う。過去を思い出して悔いるという行動ができず、思考は常に目の前だけを見ている感じ。例えば、アラビア語で後悔できるか?と考えると、知らないから悔いることができない。なので、言語がないと後悔できない面はある気がする。
ちょっとややこしいけど、言語があるからこうやって疲労を問題に感じ、困ることができるのかなと考えると、言語を認識する理性をなんとかすれば、疲労の発生源を何とかできるんじゃないかと考え、面白い発見だなぁと思った。
んー、最終的にAIを通してまとめてみたんだけど、それでもなおややこしいなぁ。ちょっとテーマが難しい。自分の中にあったり、自分の中で起きた変化を言語化しようとすると難しいのかもなぁ。逆に、自分の外で起きたような現象であればまとめやすいのかもしれない。その辺を意識して観測してみようかな。