脚立が必要な健常者
発達障害と診断されたらそれはもう健常者なんじゃないかって思ったので書き出し。
「脚立を持ってくればいい」という感覚
ネットを見てると、生きづらさを感じて「自分は発達障害だからなんだ」って病気のせいにする人がチラホラいるんだけど、その度に「それはもはや健常者なのでは?」と感じる僕がいたので書き出し。
なんでそう感じるのかというと、発達障害と診断されたのであれば対策が取れるようになるから。仮に、なぜか朝起きれない、なぜか注意力散漫、なぜか同じようにできない、って問題があったとしても、それが発達障害によるものだとわかれば対策が取れるようになる。だから、それは健常者なんじゃないか?って話。
イメージとしては、高いところにモノがあり、周りの人は手を伸ばし何事もなく取っていくけど、自身はなぜか届かない。病院に行ったら「あなたは身長が低いです」って診断された。そう分かったのであれば「じゃあ、脚立持って来ればいいじゃん」って感覚。だから、「脚立が必要な健常者」って認識。
障害のグラデーションと「向き不向き」
発達障害が「脚立が必要な健常者」だとして、仮に、癌という病気にかかりました。抗がん剤治療など対策が取れるのだからそれは健常者だよね?って話ではない気がする。発達障害と癌の違いとしては、生死に関わるかどうかってのはある。癌は死ぬ可能性が高いが、発達障害は死ぬ可能性が低い。
ただ、発達障害でも介助が無ければ生きるのが難しいような人もいる。身長で言えば、平均身長より低いだけの人もいれば、1mしかない小人症と呼ばれるような人達もいる。介助が必要な人や小人症の人や癌患者に「脚立持って来れば?」って言うのはなんか道徳的に違う気がするし、そういうグラデーションがあるせいで「脚立を使えば健常者」ってのも言い切れない。
その辺を分けようと思うと、他人の助けが必要かどうかって部分で分けられるかもしれない。ヘルパーの助けや両親のサポートが必要な発達障害は、小人症や癌患者と同じで障害者や病人側のイメージ。でも、他人の助けも脚立も同じツール(道具)って考えると、「脚立が必要な健常者」って考え方もできるんだよなぁ。それに、他人の助けなど脚立が必要ない分野であればそれはもう健常者と同じようにできるわけで、発達障害や癌と言うのはその人を指すのではなく、その人の1つの側面である「生きる」難しさを指しているだけな気がする。
かく言う僕も実家で暮らしていて、家事に関しては親の助けを借りている。それは「脚立が必要な健常者」って言えなくもない。見る視点によっては健常者だし、「脚立が必要な健常者」って感じで、見え方が変わる。
そう考えると、「向き不向き」の話なのかもしれない。仕事をする上で発達障害があるせいで脚立が必要でひと手間かかるから向いてない。けど、日常生活は脚立のいらない健常者。また、癌があるせいで薬や治療などの脚立が必要だから生きるのが向いてない。けど、それ以外では健常者って話で、向いてないことをしようとすると「脚立が必要な健常者」。向いていることをするならただの健常者なんだと思う。
極端な例でも本質は変わらない
もうちょい極端な例をあげると、四肢欠損しているような「あるものがない」って人も、肉体労働は向いてないけど、長い脚立を用意して時間かけて登れば「脚立が必要な健常者」と言える。
発達障害にも言語が理解できない障害を持った人もいたりするけど、めちゃくちゃ長い脚立と介助があれば「脚立が必要な健常者」って考え方も出来る。
癌患者も薬と治療受ければ「脚立が必要な健常者」って言えるし、この理論で行くと全員が健常者になる。実際、向いてないってだけで、時間をかければできてしまうわけで、全員が全員「脚立が必要な健常者」ってのは考え方としてはありな気がする。
けど、現実では健常者と障害者と分かれている。なぜか?
健常者と障害者を分ける「制限時間」
世間一般で言われてる健常者と障害者ってのは、制限時間内にそれができるかどうかを指している気がする。高いところにあるモノを制限時間内に手に取ろうとすると、脚立が長ければ長いほど登るための時間がかかる。健常者は手を伸ばせば届き、その時間が基準。それと同じ時間内に脚立を置いて、登り、手に取るって感じで、制限時間内に取れればそれは健常者だし、制限時間内に間に合わなければ障害者。世間一般での健常者と障害者はそういう分け方になってる気がする。
長い脚立と時間があれば誰しも健常者だが、集団側がそれを許容できないんだと思う。なぜなら足並みを乱す存在だから。なので、障害者という枠組みを用意して、足並みを乱す人は集団から出て行ってもらう。これは、会社で言うリストラ、スポーツで言う戦力外通告と同じで、社会で生活が向いてない人は障害者という形で追い出してるって話なんだと思う。
ただ、障害者は社会から追い出されてるのか?って言うと違和感がある。別に外にいる感覚はない。だとすると、障害者というのは福利厚生を受けるためにある枠組み。リストラや戦力外通告を受けて、失業手当という福利厚生を受けるように、障害者という宣告を受けて、障害年金という福利厚生を受けるための枠組みなんだと思う。
じゃあ、どこから障害者という宣告を受けるかというと家族から受けるんだと思う。家族で支えるのが不可能になったから障害者というリストラや戦力外通告を出すことで、国から公的な補助を貰う。なので、家族という集団が許容できなくなったから障害者なんだと思う。
発達障害を他責の最終形態にする心理
軽い発達障害を考えてたつもりなんだけど潜り過ぎた。話は戻って、発達障害を理由にする人ってのは、そういうリストラや戦力外通告や障害者と比べると、短い脚立で少ない時間で登ることが出来るのだからそれは「脚立が必要な健常者」で、世間一般的には健常者なんだと思う。
ただ、その脚立を自分で持ってくるのが面倒くさいから「用意して」ってわがままを言ってるような状態なんだと思う。そうなると周りから介助という脚立が必要な足手まといになるわけで、最終的にはリストラや戦力外通告を受ける。もしくは、障害者として追い出されるって話なんだと思う。
ふと思ったが発達障害を理由にするって他責の最終形態なんじゃないか?というのも、発達障害を理由にする人ってのは他人と比べて劣っているからそう感じるわけだけど、レベルの高い環境では「周りのレベルが高いから上手くいかない」って他責にできるけど、周りのレベルが低い環境では周りのせいに出来ないし、自身も全くできない感覚がないから「こんなこともできないのか」って誰のせいにもできない劣等感を発達障害のせいにするって感じで、他責の最終形態がて「自分は発達障害だからなんだ」なのかなぁって思った。
だとすると、うつ病とか適応障害みたいな精神的な病気にかかってる気がする。レベルが高い環境で挫折したらそういう病気になるし、レベルの低い環境でも挫折したら同じような状態になる。挫折をしているって状態が病気という話で、癌患者に健常者と同じようなことをさせても病気のせいで思うようにいかないんだから、まずは病気を治すべきだと思う。
終わりに
んー、なんか発達障害を理由にする人が気になって書き出したんだけど、発達障害が理由じゃなくて、そもそもそういう状態が精神的な病気にかかってる状態だからそう感じたのかもしれないわ。挫折して落ち込んでいる状態は正常な状態じゃないって話。
調べると発達障害って病気じゃなくて特性って位置付けみたいね。病気じゃないし、それこそ背が人と比べて小さいって感じの特性だから、平均身長以下は基本発達障害って言えてしまう気がする。けど、背が小さいから勉強できない仕事できないとかはない。1mしかない小人症みたいに明らかな障害がなければ「脚立が必要な健常者」だし、世間一般的な健常者。
けど、背が少し小さいだけで骨延長手術受けた人おるんよな。それで足を失った人もいる。世間一般的には大した問題ではないが、その人にとっては大きな問題。この感覚の違いが発達障害を理由にする人の感覚に近いんだと思う。そう考えると、やっぱり精神的な病気にかかって正常な状態ではない気がする。他人が気にしないような劣等感を大げさに捉えてるってのがわかってないって話だし、まずは落ち着いて考えるのが大事なんだと思う。
僕も学生時代に似た経験ある。行きたい大学無いし行ってやりたいことが無いのに受験勉強頑張って精神壊した。当時はそこそこの高校に行ってたから大学に行くのが当たり前で、行かない選択肢がないって思ってた。で、精神壊して家出した。その後、社会に出て見ると「いく必要なかったわ」って感じた。何というか、学校しか知らなかったから学校というレールから外れるイコール死みたいな感覚だったんだよね。社会に出たら思ったより世界は広い的な感覚になって、学校はその中の一部でしかないんだって気づいたって感じ。そういう視野が狭くなって社会という世間からすると気にしなくてもいいようなことを大げさに捉えてた。
発達障害とかもそういう事なんだと思う。気にしなくても良いことを大げさに捉えて勝手に精神が病気になってる状態。風邪ひいてるとネガティブ思考加速するし、とりあえず休め、無理そうなら逃げろって話なのかなぁって思う。
根本の問題は、治し方がわからない事なのかもしれない。そもそも発達障害を理由にする人って勉強や部活などを頑張ったり努力をしたことがない人のイメージ。挫折や劣等感の治療方法って「頑張る」「努力する」ことなんだけど、その経験がないからやり方がわからないって人な気がする。脚立を持って来ればいいんだけど、自分で脚立を持って来た経験が無くて、どっから持って来ればいいのかわからないって用意の仕方がわからないって人な気がする。
この辺は教育の問題な気がする。良くも悪くも子供に優しい時代で、親や大人が脚立が必要なら用意してあげてた。けど、社会に出たら脚立は自分で用意しろと言われる。社会に出たらあるはずの脚立がないわけで、どういうこと?ってパニックになって精神崩してからの「発達障害だから」という他責って話な気がする。なので、教育が根本的な問題な気がするんだよなぁ。実際、体育会系ってどこ行っても重宝されるイメージ。学生時代から脚立は自分で用意するのが当たり前な社会と同じ環境で生活しているわけだし。体育会系の厳しさは社会の厳しさと同じって感じ。
じゃあ、それ以外の人はどうすればいいのか?とりあえず、病気治して「頑張る」「努力する」って劣等感や挫折に対処できるようにする必要があるわけだけど、そもそも頑張る理由がないんだよな。レベルが高い環境、例えば上場企業や高給ホワイト企業とかだったら頑張る理由あるけど、発達障害を理由にする人がいる環境ってレベルが低い環境なわけで、頑張る理由がまずない。むしろ、頑張らない理由の方が大きい。貧困の連鎖ってこうやって起きるのかも。頑張らない家庭に生まれたら頑張らない習慣や教育を受けそれが根付き、頑張らないから挫折や劣等感の負のスパイラルから抜けられず、レベルが低い環境から抜け出せないってやつ。
結局のところ頑張る理由がないと人は頑張れないって話なので、こればかりは運なのかもしれない。基本自分で頑張る理由を作れる人ってのはいないわけで、出来るとしたらとりあえず目の前の与えられた仕事を頑張ることかなぁ。で、評価でもされたら頑張る理由が出来る。そうやって一つずつ階段を上るしかない気がした。けど、頑張った経験が無いとその頑張ると評価されることを知らないし、正しい努力の仕方を知らないから頑張れないって感じで、階段の上り方がわからない。やっぱり教育な気がする。あとは運。
なんか長くなったけど、子供の時に勉強なり、部活なりちゃんと目的を持って何かを「頑張る」「努力する」って経験をしているかどうかが重要なのかなぁって思った。目標をもって行動することで、頑張る方法や結果の出る正しい努力、結果の出ない正しくない努力を通して、自身の扱い方を知るわけだし。なんか長々と書いてると徐々に話がずれるわ。とりあえずもうお終い。気になったら別で日記書くかなぁ。
「脚立が必要な健常者」って言葉は面白いって思ったわ。あんまりこういう外に言及する日記書かないんだけど、妄想で「脚立使えばいいじゃん」ってちょいちょい考えてリソース取られるので書き出した。結構面白かった。ただ長かったし、深かった。「終わりに」をまとめるの嫌なのでこのままリリースす。長い。やだ。きつい。