日記

言語と認識の関係性

日々の気づきなどを言語化していく中で、言語というツールがあるからこそ「自分自身」を客観的に認識できるのではないかと考えたので書き出してみる。

AIとの対話で気づいた「言語」の純粋な力と自己認識

最近、AIを使い文章をまとめたりしているが、AIに対してはきちんと「言語」で指示を伝えないと、求めている答えを返してくれない。口頭での会話なら、身振り手振りや喋るペース、抑揚といったニュアンスで補えるが、AIには言語のみで伝える必要がある。だからこそ、純粋な「言語の役割」について考えさせられることが多い。

そして、この言語の力は「自分自身」という存在を認識するためにも不可欠なのではないかと思った。例えば「田中太郎」という名前があるからこそ、「田中太郎はなぜ生まれたか?」「田中太郎は何になりたいのか?」という具合に、自分自身を切り離して客観的に認識し思考ができる。そういった客観的に「何か」認識する上で言語は必要なのではないかと思った。

言語を持たない主観だけの世界

もし言語がない場合、例えば他の動物はどう世界を見ているのだろうかと考えると、彼らは自分自身の存在を主観的にしか認識できていないと思う。
それはまるでFPSゲームのような1人称視点の世界だ。鏡に映る自身を見ても、それを客観的に「自分」だと認識するための言語がないため、目の前に突然現れた何か(鏡の中の自分)に対して、威嚇や攻撃といった本能的な行動をとることしかできない。

「時間」と「役割」の言語化が後悔を生む

では、言語を持つ人間は言語を使いどういうことができるのか?「田中太郎」という自己認識以外で言えば、「後悔」がわかりやすい例だと思う。
後悔をするためには、まず「昨日」や「今日」という「時間」を認識する必要がある。さらに、「勉強」「仕事」「恋愛」といった「役割(行動)」が紐づく。それらを言語によって認識し、客観的に「あの時きちんとしておけば」という未来の視点から過去を振り返ることで、初めて後悔が成立する。

もし言語を持たない動物が後悔できるかというと、それは不可能なんだと思う。「時間」を指す言語がないため認識ができないし、自分の「役割」を客観的に認識できないからだ。目の前で起きたことにのみ反応し、一日一日を全力で生き残ることだけを目的にして後先考えずに行動する。だから彼らは後悔のしようがない。

動物の理性と、広義の言語としての「感情」

言語があるから客観的に認識し、考えることができる。これはつまり「理性」の働きであり、「言語=理性」と言える気がする。
ただ、明確な言語を持たない動物でも、理性的な行動を取るものはいる。例えば、ライオンや熊のような大型の肉食動物でも人間に懐いて一緒に生活できたりするし、人間に近い猿やゴリラ、チンパンジーは、ボディランゲージや表情で高度な意思疎通を図っている。集団生活や配偶者が必要な動物にはある程度の理性が備わっており、人間の言語に代わる「何らかのコミュニケーション手段」を持っているのだと思う。

というか、そもそも「感情」そのものが言語のような気がしてきた。言葉を発しなくても態度などから「怒っている」と伝わるのなら、それは相手に何かを伝達しているわけで、言語としての機能を果たしている。「他人に何かを伝えるために存在する」という目的において、感情もまた言語の一種なのだと思う。

言語化とは自分を動かすプログラミングである

で、結局何が言いたいのかというと、言語は「プログラミング」ということ。
AIに言語を使って正確に指示を出せば求めた回答を得られるように、人間に対しても正しい言語で伝えなければ意図は伝わらない。もし相手が動いてくれないなら、それはこちらの「プログラミング(言語による入力)」が下手で、上手く伝わっていないという話だ。上手く正確な言語で伝えることができれば、どんな人間に対しても意図した行動を促すことができる。

同時にこれは「自分自身」に対しても言える。言語を使って自分に上手くプログラミング(言語化)をしないと、本能的な欲求に流されてしまい、頭で考えた通りの処理(行動)が実行できない。言語を上手く操り、思考を明確にすることは、自身を思い通りに動かすための「プログラミングスキル」そのものなのだと思った。

終わりに

何か問題が発生すると、よく自問自答して言語化をする。そうして言語化すればするほど、自身が思い通りに行動できるようになることは、これまで当たり前のように感じていた。しかし、AIへの指示を通して見つめ直すことで、「あ、言語化って自身を上手く動かすためのプログラミング(コード)だったのか」と気づき、ひどく腑に落ちた。通りで、言語化すると意図した行動が取れるわけだ。

元々は「どうやったら僕に絵を描かせることができるか?」という悩みから始まり、「なんで絵を描きたくないのか?」「どうしたら描くようになるか?」と地道に言語化して少しずつ前進してきた。だがそれは、単なる悩み相談ではなく、自分自身を目的地に向かわせるための「プログラムコード」を書いていたのだと考えると非常に面白い。

自分ではただの日記を書いているつもりだったが、実は「自身を動かすためのシステムコードを延々と書いていた」という事実は、全く予想していなかった視点であり、とても興味深い発見だった。要するに僕の書いている日記は僕自身を動かすためのソースコードリポジトリということ。

とりあえず、AIにまとめてもらったんだけど、なんかテーマがややこしいなぁ。「言語」という単語を広い視点で見てしまっていて、一貫性が弱い気がするわ。ただ、思ったことや感じたことを書き残しておくという点では正しいが、読み物としては正しくないって感じかなぁ。なんか漫画辺りでもある気がする。自分自身は「こうしたい」けど、作品としては「こうした方がいい」って感じで、違うってやつ。実際、漫画を描いてて内容は作品にとって良い方向でやっているけど、作画に関しては僕にとって良い方向でやっている。ただ、これは試行錯誤によってそうした方が良いという判断したから。日記に関しては、どちらも僕にとって良い方向って感じなんだよね。だから読み物としては正しくないって感じるんだと思う。漫画みたいにどちらかは、「こうした方がよい」という客観的な視点に合わせた方がよいのかなぁって思った。で、こうやって「こうした方がよい」って認識ができるのも言語があるからなのかなぁって思った。

これ以上掘り下げても、新しい情報は出てこなさそうだからリリースするかなぁ。リリースしてから読み返すとそこまで違和感感じない。漫画でもあるんだよなぁ、こういう2度目は普通に見えるって感じ。どっちが正しいのかちょっと気になったから言語化してみようかなぁって思った。

Leave a Comment

入力エリアすべてが必須項目です。メールアドレスが公開されることはありません。

内容をご確認の上、送信してください。

CAPTCHA